距離のところまで落ちて来ると、急に真白な牡丹雪となる。藍子はそれが面白く、降る雪のはやさと競争するように歩いて尾世川の家へ廻った。
「いよう! えらい元気ですね」
「――あすこへ行って来ましたよ」
「え?」
 尾世川は愕いて、雪がついている藍子の髪やコートを眺め廻した。
「行らっしたんですか? 湯島へ?」
「雪見がてら行ったんだけれど、やっぱり貴方でなくちゃ駄目だそうです」
 藍子は、女の様子や伝言をつたえた。藍子は、
「結局私の行った心持なんか通じなかったらしい――女は女を当にする気のないもんですね」
と苦笑した。
「それに、あの万年筆のありかが判りましたよ。あの人があずかっているそうじゃありませんか」
「や、そうですか? どうりで、いくら探してもないと思った。いや、どうも重ね重ね恐縮千万です」
 或るレクラム版の翻訳の金が入ったところで、彼等はそれから江戸川べりの鳥屋へ行った。十四ばかりの愛くるしい娘がいた。尾世川がいくら訊いても笑って本名を教えない。尾世川は勝手に鳥ちゃん、鳥ちゃんとその娘を呼んだ。

        三

 その女は、程なく千束へ戻った。尾世川もその後訪ねて行った模様であったが、くわしいことを尋ねもしないうちに、尾世川の身辺は大分とり込んだ。
 樺太から来た女が一時彼の二階にいた。
 技師の細君で、夫の任地の九州へ独り行く。その途中寄ったのであった。
 尾世川は、そのひとの為に、謂わば職を失ったのであった。女も、いろいろ空想し、彼の許へ来て見たが結局どうにもならず、おとなしく夫の処へ行くしかない。そういう事情らしかった。
 藍子が稽古に行くと、不二子というその女は愛嬌よく、
「さあどうぞ、御ゆっくり」
と云って、自分は階下へ下りて行った。一時間、一時間半、二時間と経つ。すると女が不機嫌な表情で登って来て、
「御免なさい、何だか頭痛がして……」
 ずる、ずる、藍子のいるのもかまわず戸棚から布団を引きずり出して延べ、尾世川の背後にふせってしまう。そんなことが二三度あった。――もう五月であった。
 或る日、藍子が尾世川の宿へ行くと、今しがた出たというところだった。
 無駄足が惜しくないように近所へわざわざ越して来ているのであったが、藍子はその時はそのまま家へ引返す気になれなかった。いい天気でもあったし、藍子は久世山の方へぶらぶら抜けながら、どこへ行こうかと思った。女子青年会のアパアトメントにいる友達と、砂土原町とが頭に浮んだ。
 藍子の先輩に当る相馬尚子が仏語の自宅教授や翻訳を仕事にしてそこに住んでいる。
 藍子は、一寸|躊躇《ちゅうちょ》していたが、元気よく駆けるように大日坂を下り、石切橋から電車に乗った。
 尚子の処に、思いがけず清田はつ子、森鈴子という連中が来ていた。明治末葉の、漠然婦人運動者と呼ばれている人々であった。
 黒い紋羽二重の被布に、同じような頭巾をかぶったはつ子は、小さい眼を輝やかせて自分の恋愛談をした。
「私のその青年との恋愛は、清田によって満されなかった美の感情がその人に向って迸《ほとばし》ったとでも云いますか。――私自身始めっから、それは自覚していましたからその男のひとがほかに好きな女の出来た時、やっと役目の済んだような気がしましたよ」
 尚子が、
「なかなか浮気ね」
と笑った。はつ子も、赧《あか》ら顔の中から目立って大きな三枚の上前歯を見せて笑ったが、
「あなただって三十五六になって御覧なさると、変りますよ。自分の浮気を押えようとしているうちはまだ浮気は小さい。私なんぞは人間は浮気に出来ているものだと思ってますね」
 すると、紺サージの洋服をつけ、後で丸めた髪を白セルロイドの大きなお下髪止めでとめた瘠せて小柄な鈴子が、効果を意識した口調で、
「だからさ、そんなことは人によって違うんですよ、私だって三十六になったけれど、そんな気は一遍も起りゃしませんよ」
と、反駁した。
「誰でも小道徳に捕われている間は、そういう自在な境涯へは入れないんですよ」
 はつ子は、自分の言葉に自分から熱くなったように、
「私世の中に自分ほど面白いものはないと思いますね。自分のことを話すのだったら、どんなに話したって飽きることはありませんからね」
と云った。
「あの人は告白病にかかってるんです」
 はつ子が帰って行った後で、森がそう云った。
「あのひとは、あの告白病で雑誌をつぶしているんですよ。先もあのひとが国へ帰っていた間に清田さんがほかの女の人に手紙をやったって大層な喧嘩になって、それを雑誌へ書いて、うんと断わられてしまったでしょう。今度だって貴女、変な若い男と何だかで、それをまた雑誌へ告白し、雑誌を駄目にしちまったんですもの」
 はつ子が幼時の病気の為、頭巾を離せぬ体なので、周囲に集る男がつい彼女の女な
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