のを忘れる。夫がまたその普通の女と違う点に安心して干渉しない。実際の事情はそうなのに、若い盛りを恐ろしい孤独で暮して来たはつ子がすべて勘違いし、男達が自分を愛するものと思う。自分の肉体が特別なので、そう云う経験をはつ子は独特なもののように告白せずにはいられないのだ。――鈴子は、
「だから男のひとが私のところへ来ては、そんなに思われているの迷惑だってよく云います。あの人は私共の仲間の愛嬌ものですよ」
と笑った。
「清田さんがよく理解していなさるとあのひとは思っていたってね」
 来た時から黙って皆の話を聞いていた藍子が、その時突然小麦色の顔を赧らめ、鈴子に訊いた。
「――そういうことみんな清田さんにも云ってあげなさるんですか」
「ええ、ええ、私よく云うんですとも! 貴女が考えてる位のことは誰でも考えてますよ。ただ黙っているばかりです。だから貴女も黙っていたらいいでしょうってね」
 森もやがて帰り、藍子は今まで二人のかけていた籐長椅子の上へ半分体を延して横わった。
 尚子と藍子はそれから愉快げに種々互いの仕事や勉強について話した。
「そう云えば、貴女感心に愛素つかさずやっているわね、どうしていて? この頃、あの先生」
 尾世川は尚子の遠縁に当る人で、彼女の紹介で藍子は知ったのであった。
「――あの人名がわるいんですよ」
「へえ――誰にきいて」
「だって、あんな規知《のりとも》なんて名つけるから、逆さになっちゃったんでしょう」
「馬鹿仰云い!」
 二人は声を揃えて笑った。
「ああ、あなたに見せるものがある」
 尚子は、自分の机の上から一枚絵ハガキをとり、黙って藍子の目の前につき出した。
「どこの? おや塩原ですね」
「はやく裏御覧なさい」
 藍子は、くるりと長椅子から起きかえりながらその絵はがきの裏を見たが、
「なあんだ」
 ぷいと放り出し、そのまままた横になってしまった。
「駄々っ子ね。折角とっといて上げたのに読んだらいいじゃあないの」
「読まないだっていい」
「かわってる?」
 尚子はしんみりした調子で、
「でも美枝子さん、今度こそ本当に幸福らしいから結構だ」
と云った。
「あの人たちみたいなのも余りないわね、二年も婚約していて、おまけにあんな喧嘩をする。それでもやっぱり離れ切りもしないでこう円満に納まるんだから」
「喧嘩して却ってよくなったのかもしれない」
「そんなことよ。喧嘩せざる藍子、喧嘩せる黒川に美枝子を奪わる」
 藍子は暫く黙っていたが、
「洒落《しゃれ》てるな。私もどっかへ行きたくなっちゃった」
と云った。尚子は故意《わざ》と揶揄《やゆ》するように、
「今なら間に合う。早く塩原へ行ってらっしゃい」
と云って笑った。

        四

 その時は釣り込まれて笑った。が、藍子は夕方小石川の二階へ帰って来て、新緑の若葉照りにつつまれて明るい山径と、そこを歩いているだろう人の姿を想い浮べると、何だか凝《じ》っと夜の間坐っていられない心持になって来た。
 藍子は旅行案内を出し、北條線の時間を調べた。木更津に友達が逗留していた。そこへ行く気になったのであった。両国を六時五十分に出る汽車がある。
 バスケット一つ下げ、藍子は飯田橋まで出てタクシーに乗った。
「間に合うだろうか」
「さあ……」
 自動車が止る。藍子が三和土に足を下す。改札口がぴしゃりと閉る。同時であった。藍子は二分のことで乗りおくれたのであった。それでも彼女は、
「北條行もう出ましたか」
と、改札口を去ろうとする駅員に念を押した。
「出ました。この次は銚子行、七時二十分」
 それは、旅行案内で藍子も見たが、乗換の工合がわるくて駄目なのだ。いっそ、次の列車で銚子まで行ってやろうか。切符を買いかけ、然しと思うと、それも余りいい思いつきとは思われず……癖で、左の人さし指で鼻の横をたたきながらぐずぐずしているうちに、藍子は立花に小さんがかかっているのを思い出した。彼女は、兎に角それをきいて、今夜は一旦家へかえることにしバスケットを一時預けにして、両国橋を渡った。
 翌日の午後、藍子はぶらりと尾世川を訪ねた。尾世川は昨日稽古をすっぽかしたことを頻りに弁解し、
「どうです、よかったらこれから少し埋め合わせしましょうか」
と云った。
「さあ……私両国へ行かなくちゃならないから」
「何か御用ですか」
「バスケットが駅に預けてあるんです」
 藍子は簡単に昨夕の出来ごとを話し、
「どうも一足でも東京を出ないうちは、虫が納まらないらしい」
と苦笑した。
「いや、いい気候ですからな、誰だって遊びたいですよ。まして貴女は旅行好きだから」
 去年の、やはり五月、藍子が五日程行っていた赤城の話をしているうちに、尾世川まで段々乗気な顔つきになって来た。
「何だかどうも私の尻までむずついて来た。
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