がした。その男が先に立って、どしどし階子を下りて来た。藍子は、二畳の敷居へはみ出していた座布団を体ごと引っぱって、顔を店の方へ向けた。
「じゃ」
「そうですか、失礼しました」
 送り出してしまうと、尾世川は、
「やあ」
と云いながら、照れたような生真面目な顔をして藍子の傍へとってかえした。
「どうも失礼してしまいました。どうぞ」
「いいんですか」
「ええ、どうぞ」
 二階に、今の客が敷きのこして行った座布団が火鉢と茶器の傍にそのままある。藍子はそれを下げて、窓際へ行った。
「――。千束の人ですか」
「ええ、そうです」
 尾世川は、やっぱり照れたような具合で熱心に云った。
「どうも困っちゃったんです。妙な嫌疑なんかかけやがるから」
「どうしたんです、本当に御存じないんですか」
「本当ですとも。――今の男の妻君の妹分に当る女ってのが、私もちょっと知ってるには知ってるんですが、二日ばかり前にいなくなったんだそうです。鏡台の中とかに私の所書があったからって来たんですが、……私はそんなことちっとも知りゃしないんですよ」
「ひどく不満そうですね」
 藍子が、可愛い眼に悪戯《いたずら》らしい色を浮べて笑った。尾世川も思わず釣られて破顔したが、
「いや、決してそう云う訳じゃないんです」
と、彼は持前の、唾のたまり易い口を突き出すようにして弁解した。
「五月蠅《うるさ》いですからね」
 藍子は悪意のない皮肉で心持大きい口を歪め、美しい笑いを洩した。五月蠅いのが嫌いな尾世川であろうか! 彼が生れた日の星座がそうだとでもいうのか、五月蠅い[#「五月蠅い」に傍点]ことのためばかりに、彼は弟子の藍子に頭が上らないほど身をつめ、しかも欣々然と我が世の重荷を背負っているではないか。
 自ら尾世川の心にも漠然とした感慨が湧いて来たらしく、彼は暫く黙り込んで、自分の鼻から出る朝日の煙を眺めていたが、
「――そろそろ始めましょうか」
 吸殻を、灰の堅い火鉢の隅へねじ込んだ。尾世川のところにはたった一つ、剥げかけた一閑張の小机があるかぎりであった。彼は立って、それを室の真中へ持ち出した。

「あ、ちょっと。そこには冠詞がいりますね」
「――DER?」
「そうです。――ではこの文句をすっかり裏から云ったらどうなります。――彼が植物園へ行くことをしなかったなら、こうであったろうと云う風に……」
 稽古も終りかけで、応用作文を藍子が帳面へ書いていると、
「ごめん下さい」
 神さんが上って来た。そして体を半分階子口の板の間へ置いたまま畳へ片手をつき、ずっと尾世川の方へ一枚のハガキをさし出し降りて行った。
「――何だかうまく行かないな――これで通じますか」
 ちょいちょい字をなおしながら藍子は帳面を尾世川の方へ向けた。
「え? え?――ああ出来ましたか」
 急いでハガキを置こうとし、猶その方に気をとられ、やっとそれを下へ置いて尾世川は藍子の作文に目を通した。
「結構です。――大分こなせて来ました」
 ――煙草に火をつけながら、尾世川はハガキを再び手にとり上げた。
「――湯島天神にこんなところがあるのかな」
「なんです?」
 風呂敷を結びながら、藍子が何心なく訊きかえした。
「いや、――到頭来たんです」
「へえ」
 覚えずあげた藍子の顔と尾世川の顔とが正面に向き合ったが、二人とも笑うどころか、藍子は心配そうに、
「どこにいるのです? 湯島ですか」
と訊きかえした。
「見晴し亭内としてある――そんな家もあったかしらん」
 ハガキの文句はただ是非来てくれというばかりで、詳しい事情はちっとも分らない。藍子は尾世川に渡されたそのハガキを机の上へ戻した。
「今でようございましたね。朝のうちにでも来ていたら、さっきの男に自然に話せなかったろうから」
「そうです、そうです。……然し何故こんな真似したんだか、どうも……」
「判って見れば放っても置けまいが――」
 藍子はすっぱり彼女らしい調子で、
「どうなさいます?」
と訊いた。
「さあ……」
「あなたの心持で、責任持ってやらなけりゃいけないものがおありんなるんですか」
「いえ、そんなものはありゃしない」
「だって……」
「いえ、それは全くです。これまでだって十度と会ってないんです。だから、どうも先がどんな気なんだか見当もつかない訳なんです」
 藍子は黙って考えていたが、ふっと、
「じゃあ私が行って見ましょうか」
と云った。
「あなたが今いきなり背負い込むのも変なもんだろうし」
「そうですか。いや、そりゃあ実に」
 尾世川は、文字通り救われた喜色で面じゅうを照り輝かせた。
「そう願えりゃそれに越したことはないですが。――かまわないですか、貴女みたいに若い御婦人の行かれるところじゃ無いんじゃないですか」
「その人を訪ねて行くんですもの平気でしょ
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