白藤
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)匆々《そうそう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四四年十二月〕
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 夢で見たような一つの思い出がある。
 小さい自分が、ピアノの前で腰かけにかけている。脚をぶらぶらさせて、そして、指でポツン、ポツンと音を出している。はにかんで、ほんとうに弾けるようには指を動かさないで、音だけ出しているのであった。
 わきに、一人の若い女のひとが立っていた。ふっくりした二枚重ねの襟もとのところが美しい感じで印象されているが、顔だちや声やは思い出せない。何を話したのだろう、それも忘れてしまっている。ただ、若い女のひとの、幼い自分により添って立っていたほのあたたかさ、ゆたかに美しかった襟もとの感じばかりがのこされている。
 何年かたった。初めて小説が発表された。それについては、嬉しいこと、いやなこと、訳の分らないことが重って十八歳の自分に折りたたまって来たのであったが、そういう頃の或る日、母が、
「古田中さんのところで、お前をよんで下さったよ」
と云った。古田中さんと云われて、わたしにすぐ見当がつかなかった。
「お孝さんさ。うちへ来なすったこともあったじゃないの」
「そうだったかしら」
 どうもはっきりしないまま、その日は夕方から母に連れられて、俥に永いこと乗って古田中さんのお家へ上った。芝の清正公のそばの二階のあるお家であった。
 初冬の時節ででもあったのではなかったろうか。二階のお座敷は賑やかで、夫人のほかに、若い男のひとも何人か居合わせ、小さいお嬢さん坊ちゃんも、そこの襖から出入りした。勿論御主人も居られた。歓待して頂いた。若い娘らしくそれを十分に感じ、くつろいだ、なついた調子で、啄木の歌がすきだというようなことまでお話しした覚えがある。
 その晩も、母がそのお座敷で、私が幼い記憶にあるお孝さんと現在の古田中夫人とを結びつけかねている可笑しさを話し、一座の人々は笑いながら、無理もない、という風に私の味方をして下すった。自分も笑い出しながら、改めてそっとお孝さんのお顔を眺め、ふくよかな全体の感じにあの美しい襟もとと共通なものを知りながら、其でもやっぱり、あのひとがとりもなおさずこの方という工合にはぴったりと会得出来ず、今の姿で、環境で初対面の思いがするのを不思議に考えるのであった。

 私たち中條の子供たち、特に上の二人にとって、西村の伯父様という名は、特別に親しみがあった。その伯父様はいつも、品川の伯父さんと母に呼ばれ、明治三十七年頃から数年間父が外国暮しをしていた間、若い母は子供三人、義妹義弟との生活のなかで、少なからず、「品川の伯父さん」に心だよりを感じていたらしく思われる。
 母の父、私たちにとって西村のおじいさんになる人は、明治三十五年ごろに没していて、向島の生家には、祖母と一彰さんと龍ちゃんという男の子がいた。
 風呂場のわきにかなり大きい池があって、その水の面は青みどろで覆われ、土蔵に錦絵があったり、茶の間にはお灸の匂いが微かにのこっているという風な向島の家は、陰気でいつもいろいろのごたごたがあった。
 向島のおばあさんと母とが、林町のうちの長火鉢の前で二人とも涙をこぼしながら何か云いつのっているのを、小さい私が雪どけ水の落ちる軒下で龍の髯をぬきながら、困惑した気持できいていたようなこともある。
 たった一人の妹とも、母は苦しい縺れのまま生涯過した。
 小さい娘に母は品川の伯父さんが、明治の日本へ初めて近代の皮革事業をもたらした見識を賞讚してきかせた。
「謙吉さんが生きていてくれて、品川の伯父さんと一緒だったら、お母さまもどんなに安心だったかしれないのにね」
とも云った。
 謙吉さんというのは母の長兄で、アメリカへ行っていて、帰ったら程なく気が変になった。田端の白梅の咲いている日当りよい崖の上に奥さんと暮していて、一日じゅう障子の前に座り、一つ一つと紙に指で穴をあけて、それを見て笑っているという気違いであった。そして遂に正気に戻らず亡くなった。
 品川の伯父さんは、良人が留守な姪の子たちを丈夫にしてやろうと、大磯の妙大寺(ほんとはどんな字を書いたのかしら、わからないが)という寺の座敷を一夏借りて、皿小鉢のようなものまで準備された。
 西村の祖母、母、子供三人の同勢はそこへ出かけて、子供らは、生れてはじめて海岸の巖の間で波と遊ぶ面白さを味った。
 お寺の座敷の横は深い竹藪であった。裏に蓮池があった。蓮の実をぬいて喰べることをお寺の小僧から習った。雨が降ると、寺の低い方にある墓場で、火が燃える。夜になると雨戸のところから其が見えると、ぞくぞくすることを教えたのも、その小坊僧さんであった。
 子供らに
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