とって、新しい冒険と面白さの尽きない夏がはじまった。祖母と母も、新しい鰺を美味しがって、涼しい一夏を送れそうに見えた。ところが、妙なことが起って、匆々《そうそう》にここは引上げる始末となった。
 竹藪の方から、泥棒がみんなの借りている座敷のあたりを狙いはじめた。子供らは、何にも知らず眠るのだが、起きると、大人たちが、昨夜も貝がらを踏む跫音がした、そこの板じきに足跡がついていると、物々しいことになった。和尚さんが、いくら呼んでも起きてくれなかったと、若い母が憤慨していることもあった。
 十日ほど、そんなことが続いた揚句、一同は又来たときの行列で東京へ帰って来た。その夏、品川の伯父さんは、子供らにとってごく身近で、大磯のどこかにも来ていられるのかもしれないような塩梅だった。それでも、お目にかかったことは一遍もなかった。
 中條の子供は、どういう工合でだったか一人も、西村の伯父上にお目にかかったものがないまま、遂に没せられたのであった。
 お孝さんは、この西村の伯父さんの娘さんであった。母とはいとこ同士で、向島で暮した娘時代共に寝起きしたお登世さんという従姉をのぞいて、おそらく母が誰よりも親しんだ女いとこの一人ではなかっただろうか。
 その家の若い令嬢として、お孝さんは、私たち子供連のことも、おそらくは大磯のことも、きっと茶話に出て知っていられたことだろうと思う。
 十八九の娘にとって、十以上も小さい子たちは、何と稚いものに映ることだろう。反対に、七八つの女の児の目に年ごろの女のひとは、何と大人に思え、更にその児が成長してももうそのときは子供二人三人の母となっている年上のひとは、やはり全く別の世界にいる大人として思える。
 母がお孝さんと近くに呼ぶひとを、私はそういう心理から、古田中さんという学生っぽい呼びかたで呼び、格別お宅を訪ねるということもなく、親切なことづけを母からきいているばかりで、何年も経た。
 考えてみると、母は風変りめいたところがあっと思う。私たち子供らは、小さい時から親戚へ連れられて行くというようなことが実に少なかった。すこし大きくなっても、それは同じであった。母とお孝さんのところへ上ったのも、思えば、芝のおうちが一度ぐらいのことではなかったろうか。
 大正の中頃から昭和へかけての時分、母はお孝さんに誘われて沢田正二郎の芝居を見物するようになった。
 比較的芝居は観る方で、演芸画報をかかさずとっていたが、有名な沢正を観たのは、お孝さんのすすめによってであった。帰って来て、
「あれは、どうして熱がある。あの男は相当のものだ」
と云ったりしていた。
「あの熱のあるところが、お孝さんの気性に合うのだね。ただの役者じゃないよ」
 そして、感慨ふかげであった。
「お孝さんも熱情家だからね、品川の伯父さんの娘だけあって、あらそわれないところがある」
 シラノ・ド・ベルジュラックを白野弁十郎として演じたのは、沢正一代の傑作であり、特質を全幅に活かしたものであったろうが、母もその頃は、お孝さんの傾倒に十分の同感をもつようになっていた。
 段々接触が多くなるにつれ、お孝さんは母のいいところも至らぬところも理解されたらしいし、母もお孝さんの裡に、自分の血管のうちに流れている一種の激しい、しかも正直で術策のない、ロマンティックな要素も多い熱血を感じとったらしく思われる。
 私は、漸く人間の心持の曲折や、ことには女の生活の明暗が、いく分身にひき添えてわかる時代に入って来た。
 母の生活にあらわれる光りと翳を、女性のその時代、その年頃の生命の波だちとして感じられるようにもなり、ひいてそのことは、日本の世間のしきたりや女の暮しとして定められている形と女性本然の生活への翹望というものが、時にどんな形で相搏つものかということについて、深く心をうたれる場合を多くした。
 古田中夫人の性格というものが、徐々に一つの力をもって私にかかわるものとなって来た。
 この時分、どういう折のことだったろう。夫人は私に一つ指環を下すった。お孝さんはなかなか趣味家で、指環にも趣好があるらしいよ、というようなことを、母からきいていた。いつも、さっぱりと一つほど、気にかなった指環をして居られて、それはどれも仰々しいところのない、親愛な気分のものだった。
 私に下すったのはイタリーのカメオが金の台にとりつけられている、極くさっぱりとした品であった。柔かみのある灰色地に白で肖像のついているカメオを、装飾のない金の座で単純にとめてある。其は、母が哀慕していた謙吉さんという人が、アメリカ土産にお孝さんにあげたものだったそうだ。妹の長女である私は小さいとき、謙吉さんから養女にもらわれかかったことがあったという話も、いつか夫人につたわって、その指環をいただくことにもなったと思われる
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