るいって?」
「ええ。お姉様いつ帰ってらしったの」
「今かえったの。――寝てらっしゃるの」
 千世子は、何だか当惑そうに合点した。そして、少女らしい様子で、
「――疲れてるんだって」
と云った。なほ子は、母が下りて来るか、自分が二階へ行こうか、千世子をきかせにやった。
「今起きたところだから、三十分ばかり休みたいんですって」
 なほ子は、その間に風呂へ入った。水道の湯が久しぶりで心持よく、生垣の彼方で活溌な子供の声がしたり、それより一寸遠いところでピアノの音がしていたりするのが、愉快であった。生活の泡立っている感じが、体の周囲であぶく立つ石鹸の感覚と縺《もつ》れ、なほ子は何度も何度も勢よく立ったまま湯を浴びた。
 軽々した気持で、なほ子は二階へ登って行った。
「いかが」
「ああ」
 まさ子は、半分起き上った床の上で、物懶《ものう》そうに首を廻し、入って来る娘を見た。
「どうもはっきりしないんで困っているのさ――温泉はどうだったい――よく来たね」
「いやに萎れた声ね、どんななの?」
 まさ子は、床の裾に腹這いになっている千世子の方に目をやり、
「何だかいろいろたたまったんで悪かったんだね」
と云った。力なく腹のところを折りまげるような姿勢で、
「食慾がちっともないんで疲れて」
と吐息をついた。
 眩しくないように足許の台に乗せたスタンドの明りで、なほ子は皿に盛られたままの煮た果物や赤酒のコップなどを見た。それ等は少くとも午後からじゅうそのままそこに置かれていた様子であった。なほ子は、女中を呼んで、そんなものを皆片づけさせた。
「始終そばに置いて見ていちゃ猶食慾が出ないわ。――今日何あがったの?」
「牛乳だといくらでも飲めるから、きのうは牛乳二合ばかり、今日は葛湯も少したべた」
 まさ子は、大儀そうに小さい声で、
「ああ、ああ」
と云い、先ず肱をおろし、肩をつけ、横たわった。
 千世子が下で、疲れるんだって、と云った時、微妙な一種の表情があったので、なほ子は、屡々《しばしば》ある不眠の結果だろうと思っていた。まさ子は数年来糖尿病で、神経系統に種々故障があるのであった。
「――じゃ今日だけ一寸|臥《ね》ていらっしゃるんじゃなかったのね」
「国府津から帰ると悪いのさ――あとさき六日ばかりだね」
 耕一や千世子が母の容体につき無頓着そうにしているのが頼りない変な心持をなほ子に起させた。
「何だかすーすー寒いね、障子閉めとくれな」
 まさ子は、小さい娘がいなくなると、細かく容体をなほ子に話した。なほ子はそれを聞かない前より不安になった。
「その事は一時的で癒ったって、こんなに弱っているのはいけないわ、第一食慾のないなんか。どうしてちゃんとした人に診《み》てお貰いんならないの」
 まさ子は、弁解するように、
「診せたよ、だから――久保さんに」と云った。
「更年期にあり勝ちのことだから、その方は何にも心配することはないんだよ。――疲労だよ」
 そのうちに、父の昌太郎も帰って来た。
「どうですね、少しは何か食べられますか」
 それを捕え、まさ子は半分冗談で攻めるように、
「国府津へなんか来いと仰云るから悪いんですよ」
などと云った。

 なほ子は台所へ出て行き、冷肉を拵える鶏を注文させた。料理台の傍に立っている女中に、
「晩に上るもの、何か拵えた?」
と訊くと、
「いいえ、何も致しませんでした。召上りたくないと仰云いましたから……」
 雇人と、あとは小さい娘とだけで病床にいる母の境遇がなほ子の心に迫った。
 おそくなって、野菜スープやサラドを運んで行ったが、まさ子は、悦《よろこ》び、
「美味《おい》しそうだこと――御馳走になって見ようか」
と云うばかりで、ほんの一口飲み下しただけであった。彼女は、なほ子を落胆させまいとして云った。
「明日にでもなれば、きっと味が出るだろう」
 父親と二人になった時、なほ子は本気になって専門医に見せることを勧めた。
「何でも糖尿病と更年期に押しつけて置いて、ほんとに手後れにでもなったら大変よ」
 昌太郎は、
「うむ、うむ、いやその通りだ」
と、頷いた。が、その手筈を決める決心はつかないらしかった。なほ子は、祖父の癌であったことからそれを気にしているのであったが、まさ子は、そんな疑いを頭に置かないし、置いているとしても彼女は第一医者に信用を置いていなかった。十三年ばかり前、癌だと云われ、切開されそうになった経験があった。その時、まさ子はその方面では大家である専門医と議論し、頑張って到頭切開させなかった。それは後になって見ると実際癌ではなかった。幽門の潰瘍《かいよう》風のものであったと見え、まさ子は殆ど医者にかからず、忍耐と天然の力をたのみに癒した。自分の体は自分が一番よく知っている、そのように今度も云った。
 十時
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