を軒先に突き出している。当時の記憶は、なほ子にとって快いものではなかった。然し、そう数年のうちに全然忘れ切れる種類のものでもなかった。それに反してあたりの様子の変りようの激しさが、なほ子に意外な、ぼんやり驚きの感情さえ与えた。見れば、川も、幅が半分ばかりになっている。
詮吉は、呑気《のんき》にステッキを振り振り、
「荒れてるなあ、物凄いようだ」
と、都会人らしく感歎した。
「そりゃ湯ケ原のようには行かなくてよ」
「え? うむ、そりゃ分ってるが……硫黄の出るところは流石《さすが》に違うな」
「家らしいのは宿屋だけね」
この方面ばかりでなく、宿屋が並んだ表通りを一寸裏へ入ると、どこでも北海道の開墾地へ行ったような有様なのであった。
彼等は、元湯共同浴場と立札のあるところへつき当った。道が二筋にそこで岐れている。
「どっち?」
眺め廻し、なほ子は苦笑しつつ、
「さあ、分らなくなっちゃったわ」
と云った。
「右じゃないかしら」
彼等の先へ、二人連れの男がぶらぶら行くのでなほ子はそう云ったのであったが、少し行くと其方は行き止りであった。
「おやおや、怪しい道案内だな。――誰か訊く人はないか――訊いて見よう」
「大丈夫よ、じゃあ此方」
一つの共同風呂の窓が開いていた。強い硫黄の香が漂い、歩きながら人気ない幾つもの湯槽が見下せた。湯槽を仕切る板壁に沢山|柄杓《ひしゃく》がかかっていた。井[#「井」は○付き文字]とか、中村、S・Sなどと柄杓の底に墨で書いてある。
そこを過ぎると、人家のない全くの荒地であった。右にも左にも丘陵の迫った真中が一面焼石、焼砂だ。一条細い道が跫跡《あしあと》にかためられて、その間を、彼方の山麓まで絶え絶えについている。ざらざらした白っぽい巌の破片に混って硫黄が道傍で凝固していた。烈しい力で地層を掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》られたように、平らな部分、土や草のあるところなど目の届く限り見えず、来た方を振りかえると、左右の丘陵の巓《いただき》に、僅か数本の躑躅《つつじ》が遅い春の花をつけているばかりだ。森としている。硫黄の香が益々強い。
自然の圧迫を受け、黙って足早に歩きながら、なほ子は悲しい歓ばしい感動を覚えた。ここさえも、なほ子が嘗て覚えている光景とはいつかすっかり異っていた。道の工合も違う。大きな地辷りがあったと見え、巌と泥とごたまぜに崩れ落ちている丘陵も違う。もっと奥の温泉への登り口がどこかその辺の篠原の間についていた筈だが、見当もつかない。――いくら見ても見当のつかないのが悲しく歓ばしく、なほ子は、度々その方を見ては鋭い感情を味わった。暗い一生の思い出と結びついたものと思っていた自然が、こうも新しいものとなって眼前にある!
飛ぶものは雲ばかりなり石の上 芭 蕉
石の碑が見えるところまで来ると、詮吉は真白い手巾《ハンカチ》を出して鼻を覆うた。
「ここより、却って来るまでの方が臭かったわ」
「そう?……いや臭い臭い」
詮吉は一旦はなした手巾をまた鼻におしつけた。
暫く、黒いごろりとした石を眺め、彼等は左手の丘陵へ登る路を帰途についた。或るところで一坪ほどの地面が大きな一本の躑躅ごと坂道へ雪崩《なだ》れ込んでいた。根こぎにされたまま、七八尺あるその野生の躑躅は活々樺色の花をつけていた。
真先に詮吉が東京へ帰った。なほ子もやがて立つことになったが、単調な山の中に半月もいて、同じような郊外の家へ帰るのは如何にも詰らなかった。真直に夜の東京の中心に戻り、燈火と人間と、明るく暗く錯綜に揉まれたかった。弟でも誘い出しどこかで夕飯をたべるつもりで、なほ子は上野へ着くと両親の家へ電話をかけた。
「お離れにいらっしゃいますから一寸お待ち下さい」
「もしもし、ここ自動電話だから早くしてね」
それでも、待つ時間が気になる頃、耕一が出て来た。
「ああ、暫く。――今日帰ったの?」
「今上野なの――貴方出て来る気ない?」
暫く考えていたが、耕一は、
「僕今夜は家にいた方がいいな」
と云った。
「友達が二三人手伝いに来て呉れることんなってるから――え? 製図――それに阿母さん工合わるがってるから、家へいらっしゃいよ」
なほ子は、灯のつき始めた山下辺、池の端の景色などを曇ったタクシーの窓から、それでも都会らしく感じて眺めた。
植木屋が入ったと見え、駒込の家の玄関傍に、始めて見る下草の植込みが拵えてあった。薄すり紫がかった桃色の細かい花が、繊《ほそ》い葉の間に咲いている。それを見ながら、なほ子は呼鈴も押さず、暗い板の間へ通って行った。茶の間の戸を開けようとしていると、
「アラ」
千世子が、おかっぱと制服の裾を膨《ふく》らませ、二階から駈け降りて来た。
「お母様、工合がおわ
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