過、なほ子は耕一の仕事場にしている離れに行った。襯衣《シャツ》一枚になって、亢奮が顔に遺っていた。彼は出来上りかけている製作をなほ子に見せながら、
「姉さんいて呉れると、どんなに心丈夫だか分らない――話んなりゃしないんだから、間抜けばっかりで」
と云った。傍の台の上に、耕一が製図している家の油土の模型が出来ていた。彼は、
「電球見ないでね」
と注意して、二百燭をつけ、それを写真に撮った。卒業製作なのであった。
翌日、まさ子は床についたままで、矢張り殆ど食事が摂れなかった。
「こんなに長く恢復しないことは無いのに」自分でも怪しんだ。
「幽門の瘢痕《はんこん》は仕方がないもんだそうだね、時々サーッと音がするようだよ。――何だか感じがある」
母自身決して平気でいるのではなく、却って或る意味では医者を恐れているのが、なほ子に感じられた。なほ子が押して診察をすすめると、不快そうに理屈を云い、やがて、全然違う話をいろいろ始めた。
「こうやって寝ていると、昔のことをしきりに思い出してね、お祖母さまがいらしったうちに、いろいろ伺って置かなかったのが本当に残念だよ。――御自分でも話して置きなさりたかったんだねえ、春頃、もう喋って喋って、私の方が閉口してしまいました」
明治二十五六年頃住んでいた築地の家の洋館に、立派な洋画や螺鈿《らでん》の大きな飾棚があった。若い自分が従妹と、そこに祖母が隠して置いた氷砂糖を皆食べて叱られた。その洋画や飾棚が、向島へ引移る時、永井と云う悪執事にちょろまかされたが、その永井も数年後、何者かに浅草で殺された事など、まさ子は悠《ゆっく》り、楽しそうに語った。向島時代は、なほ子も聞いた話が多かった。それから、昌太郎が外国へ行った前後の話。――母の生涯のこれまでの生活全体が、くっきりなほ子の前に浮び上って来た。
なほ子は母の老いたことを沁々《しみじみ》感じ、さっき彼女自身、祖母について云った口うらから、母が飽きず思い出話をするのが、水のように淋しかった。
午後、復興局に働いている若者が見舞いに来た。区画整理で、寺の墓地を移転するについて、柳生但馬守の墓を掘ったら、中には何もなかったと云う話をした。
「へえ、奇体なことがあるね、どうしたんだろう」
まさ子は興味を示した顔つきで、その若者やなほ子を見た。そんなとき、眼に平常《ふだん》の母らしいかさばった強い重い感じが現れた。が、なほ子はその間にも心痛の加るのを感じた。半分笑いながら、
「このお婆ちゃんは頑固でどうしてもお医者がいやだって仰云るのよ。土屋さん、一つすすめて頂戴」
と、なほ子はその客に云った。土屋が帰ると、まさ子は、横になりながら、
「一つは精神的にも来ているんだろう」
と云った。
「この頃は生きている張合がなくなったような気がする――何か期待するなんていう気持がちっとも起らなくなってしまった、極く冷やかな心持だねえ、悟ったって云えば悟ったのかもしれないが……」
なほ子は思わずつよく、
「悟りは冷やかなもんじゃあないことよ、あたたかいはずよ」
そして、笑い出しながら云った。
「けちなこと云い出すと、火をつけるぞ――」
「――何だい――」まさ子は「なんだ、飛んだ婆焼庵だね」
苦笑したが、
「全くね、若い時分には、立派な家に棲っている人を見ると、ああ羨しい、自分もどうかあんな家に住みたいと思ったもんだが、この頃は、まあ一体こんな家の後をどんな人が継ぐのだろう、と思うね、羨しくなんぞちっともない。却って変な淋しい気になる。――それに……この頃では父様の力というものも分って来たし……これ以上の成功は望めないと思って来たしね」
黙って母の傍に自分も横わりつつ、なほ子は心に感じてそれ等の言葉をきいた。母の心の内部に新しい転機が来かけている。それが、どこかで自分の心とふれ合うものらしいのをなほ子は感じた。
昌太郎が、北海道へ旅行しなければならなかった。その留守の間、このようなまさ子一人では心細いし、なほ子としては、どうしても一度信用ある医者に診せないうちは気がすまなかった。三四日泊ることにし、一旦、郊外の家へ帰った。
宵から降り出し、なほ子が十一時過て郊外電車に乗った頃、本降りになった。梅雨前らしいしとしと雨であった。暗い田舎道を揺れながら乱暴に電車が疾走する。その窓硝子へ雨がかかり、内部の電燈で光って見える。なほ子は停留場へつく前に座席を立ち、注意して窓の外を覗いた。誰か迎えに来ていて呉れるであろうか。時間がおそかったし、第一、約束もしていないから当には出来ず、然し、人通りない暗い町を、その元気の足りない心持で一人行くのは閉口なのであった。電車が止った拍子に、待合所の隅でひょいと人の顔が動いた。大変小さい顔に見えた。がそれは総子であった。なほ子はわざ
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