わざ出ていて呉れた総子の心持に、特別な思いやりのあるのを感じ、一層嬉しかった。総子は、不恰好な足駄の包や傘など一どきに抱えて立ち上り、
「さ、これ」
と云った。
他の者はもう寝ている。総子の部屋で茶をのみながら、なほ子は母の容体を話した。
「それで?――誰かに診せたの」
「まだ」
「そんなことってあるものか」
総子は、大きな怒ったような声を出した。
「貴女がついててそんな!」
「だからね、明日行ったら私自分で手筈するわ、もう親父さんはあてにしないで、ね」
目の前に母の顔を見ていた間、心配は心配でも何か切迫しないものがあったが、今総子と話していると、なほ子はこわさに似た不安を覚えた。親が老いたということが子にとって持つ意味の大きさ、それがなほ子の心臓をさしたのであった。――
総子が煙をぱあっと散らせながら煙草をのんだ。そして、なほ子の顔を見ている。なほ子も内心の感じに捕われながら、自分を見ている総子の顔を凝っと見ていたが、不意に彼女は口を少し開け、変に苦しげな恐怖に襲われた表情をした。総子の顔を見ている眼に、問いたげな色を現わした。
「どうした? どうした?」
なほ子は、頭を振って大丈夫と云う意味を示し、一寸経ってから、
「何でもない……少々過敏になっているもんだから」
と云って咳払いをした。言葉に出すのがいやでなほ子はそう云ったのであったが、本当は訳があった。総子の顔を見ているうちに、なほ子は或る夢を思い出した。それは、歯の抜け落ちる夢であった。何かしていると、上歯がみんな一時に生えている順にずり抜けた。おどろき悲しみ、手で押えるがザクザク口一杯になってどうしようもなく、その堅い歯がザクザク口一杯にひろがった時厭な、絶望的な感じが醒めて後まではっきり残った。同じ夢を一度ならず見た。なほ子は迷信家ではなかったが、今突然その心持が甦って来ると、神経の平静が保てなかったのであった。
風呂を浴び、自分の部屋へ行くと、寝台の上に新らしい白い蚊帳《かや》が吊ってあった。天井から吊るす丸い蚊帳であった。爽やかさから慰安を感じ横わったが、なほ子は容易に眠れなかった。心を張りつめる不安を追って行くと、不安は暗《やみ》の裡で無限に拡り、なほ子の心を震わす程強かった。これは夢中な心配だ、夢中な心配だ。なほ子は心配で強ばりながらそう思った。生活態度について互の意見が違い衝突することが屡々あった。それにも拘らず何と自分は自分の母を愛していることだろう。今となって見ればその為に却って彼女も全力をつくし生きたことが理解され、愛されるのが必要なのはもう自分ではない母の番だということをなほ子は敬虔《けいけん》な心持で感じるのであった。然し、子供の時から常に与えてであった母、より強きものであった母を、或る時、弱きもの、全然自分の劬《いた》わるべきものとして発見するのは、なほ子にとって異様な感動であった。理解しないことのあるのも当然だ。気短かな母、理解せぬ母を母の生活の盛りの思い出の為だけにでも愛すであろう。或る時は怒ったり、或る時は笑ったりしながら。――
なほ子は、新たな愛の自覚から、一層母をこの世に於て離れ難き者に感じ涙をこぼした。
底本:「宮本百合子全集 第三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第三巻」河出書房
1952(昭和27)年2月発行
初出:「中央公論」
1927(昭和2)年8月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年9月25日作成
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