けを、ああ、こうと、取上げ、その関係において中心を自分一個の弱さ暗さにうつし、結局、傷心風な鎮魂歌をうたってしまっている。
動揺のモメントが共産主義や進歩的な文化運動への批判、個性の再吟味にあるという近代知識人的な自覚は、その実もう一重奥のところでは、土下座をしているあわれなものの姿と計らず合致していると思うのである。
私がさっき村山や中野に連関してくちおしいといったことの中には、私たちの現実として負わされているこの革命的階級性以前の自己の弱さ、自分ながら自分の分別の妥協なさに堪えかねるようなところに、彼らがうちまけている、それがくちおしいという意味もふくんでいるのである。
だいたい転向作家の問題は、勤労大衆とインテリゲンチアに対し、急進的分子に対する不信と軽蔑の気分を抱かせるために、たくみに利用されていると思う。大衆の進歩的な感情を少なからず幻滅させ、部分的にはそれへの嫌厭の感情にかえた。その責任は自覚されなければならないと思う。舟橋聖一氏が昨今提唱する文学におけるリベラリズムの根源は、そういう反動的憎悪とかつて進歩の旗のにないてであったものへの報復的アナーキーの危険の上にたっているのを見て、私はつよくそのことを考えるのである。
ロシア文学史は、どの時代をとって見ても面白いが、私はこの間その中でも感銘ふかい一節を読んだ。丁度ロシアにマルクス主義が入った一八九〇年代の初めに、ロシアの二十県に大饑饉が起ったことがあった。八〇年代の農奴制度の偽瞞的な廃止やその後に引きつづいて起った動揺に対して行われた弾圧のために消極的になった急進的な若い分子は、この饑饉の惨状の現実をモメントとして民衆悲惨の問題を再びとりあげて立った。ゴーリキイがまだ二十一歳ぐらいでニージュニイで自殺しそこなった前後のことである。初期のマルキシストをふくむ急進的インテリゲンチアは、饑饉地方に出かけて行って、その救護や闘争のために全力的援助をした。饑饉が終るとコレラが蔓延し、一揆があちらこちらで起ったが、このとき、怒った大衆の標的とされたのは誰あろう、ともに餓えて疫病と闘った急進的知識人と医者とであった。
このからくり[#「からくり」に傍点]に采配をふるったのは、ツァーの有名な警視総監である大官ポベドノスツェフであった。そして、この奸策を白日のもとに明かにしたのは、もちろんポベドノスツェフではなく、足をすくわれた後、立ち上ったロシアのマルキシストたちであった。
私は日本プロレタリア文学史の中でも、こんにちのさまざまな現象が、やはりそのような視角から明らかにされる時のあることを想像して、尽きない興味を覚えるのである。[#地付き]〔一九三四年十二月〕
底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「文芸」
1934(昭和9)年12月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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