冬を越す蕾
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蔕《へた》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)批判し得るのは[#「るのは」に×傍点、伏字を起こした文字]
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 十一月号の『改造』と『文芸』のある記事を前後して読んで、私はなにか一つの大きい力をもったシムフォニーを聴いた時のような感情の熱い波立ちをおぼえた。『文芸』で、大宅壮一氏が「転向讚美者とその罵倒者」という論文を書いている。一方、カール・ラデックがこの八月第一回全連邦ソヴェト作家大会で行った報告演説が、「プロレタリア芸術の課題」という見出しで翻訳されて『改造』にのっている。
 二つの論文は、互にもつれ合い、響きあってその底にだんだんと高まる光った歴史的現実の音波を脈打たせているという印象を、私の心に与えたのであった。
 今年の夏の末ごろのことであった。ある友達が私のしびれている脚に電気療法をしながら、その男兄弟が、
「どうもこの頃は弱るよ。転向なんぞした奴だからというのを口実に、執筆をことわる人間ができて来て……」
といって述懐したという話をした。そのときも、私はさまざまな意味で動的な人の心持の推移がそこに反映している実例として、それを感じた。
 中村武羅夫氏や岡田三郎氏によって、いわゆる転向作家に対するボイコットが宣伝されたとき、私は、ふとその友達の話を思い出したのであった。そして誰の目にも明らかなように、反動的な動機から呈出されている両氏のいい分のかげに隠されているものに対して、注意をひかれたのであった。何故なら、もし一般の人々の感情が、ひと頃のように、プロレタリア作家の間でさえいわゆる転向しない者は間抜けのように見られていたままの弛緩し切った状態であったならば、両氏は、転向作家ボイコット提唱を可能にする社会的感情のよりどころを、つかむことはできなかったであろうから。また、転向が否定的な意味をもって一般の問題となってくるからには、当然他の半面に立つものとして、抵抗をつづけている者たちの、この社会における存在が、再び見直され、かつそれに対する評価は、ひところとちがって来ていることを暗示しているのではないであろうか。私はそれらの錯綜を興味ふかく思うのであった。
 この二三ヵ月は月評につれて小林・室生両氏をはじめ、二宮尊徳について書く武者小路氏まで、この問題にふれている。『新潮』の杉山平助氏の論文、『文芸』の大宅氏の論文を熱心に読んだのは、恐らく私ひとりではなかったであろうと思われる。二人の筆者は、いわゆる転向の問題賛否それぞれの見解を今日の現象の上にとりあげ、内容の分類を行い、問題の見かたをわれわれに示した。
 そもそも転向作家に対してその行為を批判し得るのは、抵抗しつづけている者だけであるという結論に至るらしい大宅氏の意見はもっともであるとうなずかれた。
 転向という文字が今日のような内容をふくんで流布するようになったのは、正確には去年の初夏以来であり、(佐野・鍋山・三田村その他共産党指導者たちが従来の帝国主義侵略戦争に反対するコンムニストたる立場をすてて、日本の中国に対する侵略行為に賛成し、支配権力に屈伏した時から)プロレタリア文学運動との関連で実際的内容をもつようになったのは特に今年になって、プロレタリア文学者・戯曲家その他の屈伏があらわれてからのことであると思われる。基本的にいなかるものから、どう転向したかということを明確に批判し得るのは[#「るのは」に×傍点、伏字を起こした文字]、抵抗者たち[#「抵抗者たち」に×傍点]であり、文学運動の面についてこの問題をとりあげるとすれば、ブルジョア文学においてではなく、問題の本質はプロレタリア文学の問題であるというのも、正当な理解であると考えた。
 大宅氏は、嘗てのプロレタリア評論家たちが、この問題を自身の問題として真面目にとりあげず、転向謳歌者の驥尾に附している態度を慨歎している。杉山氏は硬骨に、そういう態度に対する軽蔑をその文章の中で示しているのである。
 プロレタリア文学の運動は、昨今、非常に意味ぶかい第二次的な発展的時期に入っているということは、広い目で見ると、逆に大宅、杉山両氏によって摘発されたもとの指導的評論家の退転という事実そのもののうちにも察しられるように思う。急激なテンポで進む情勢は、階級的文学をひどい勢で推しつつある。現在は、タイプとして新しいプロレタリア文学の活動家がまだ全貌を現すところまで成熟せず、健康な伝統と影響とは、勤労大衆のうちに文学的に未熟なものとして保有されている。いろいろな雑誌に対する読者からのこまかい反応を観察することによって、その事実は確信されるのである。
 ところで、転向作家についての諸家の意見は、ある特殊な動機を
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