を見ない誤った至上主義的理解からは、幸い久しい以前にぬけでているのであるが、やはり転向作家のことはプロレタリア文学の発展の上に個人的であるとともに普遍な問題を含んでいると思うのである。
 実際の場合について見れば、なるほど転退は一人一人の事情によって、それぞれのやり方で個人的になされたであろう。けれども私は、杉山氏のように「村山はそんな立派な人物ではなかったから止むを得ない」という風にいっただけでは十分自身にむかって満足できかねるのである。
「白夜」は、作者が客観的情勢の否定的暗さとともに自身の暗さを摘出しようと試みた点で、ある評価をうけた。それゆえ、「再出発」についての文章の中でも、村山は知ってか知らずか、特に自身の曝露ということを強く云っているらしく思われるけれども、個人的な性格解剖の限度内で、いかほど自身の暗さを露出しても、プロレタリア文学の大局に、はたしていくばくのプラスであろうか。更に進んでよしんば、自身の弱点のすべてを、インテリゲンチアの小市民性によるものと結論し糺弾したとしても、現実の本質はつかまれたという感じを、私たちに与えないであろうと思う。
 私たちの切に知りたいのは、性格にそのような動揺する暗さ明るさをもったインテリゲンチアの一団がその青年期のあるときにいろいろの矛盾を背負ったまま階級的移行をしたのは、歴史的にどのような必然によるものであったのか。そして、それから十年にわたる彼らの活動は、どんな歴史的特色をもっていたが故に、今日の困難な情勢の下に彼らが挫折しなければならないように、その内的矛盾を激化したのか。
 そのいきさつが知りたいのである。ヨーロッパにくらべると二十年余もおくれてイデオロギー的に大衆化するや直に複雑多岐な暴力にさらされなければならなくなった日本の若いマルクス主義の活動家たちと、転向の問題とは骨肉的な関係で結ばれていると思う。運動が合法的擡頭をした時代に階級的移行をしたインテリゲンチアが、文学上の名声という特殊性もあってまだ十分自分らを階級人としてこね直しきらないうちに、情勢の方はさきまわりして客観的にはそれらの人々がすでに一つ前の時代のタイプとなり、その破綻が転向という形態で、今日現わされてきている。
 従って、問題はいわゆる転向したプロレタリア作家たちの良心の上にだけかかっているのではない。われわれみんなの上に、大衆の上に
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