問題となる。何故なら、私たちすべては、何らかの形で今日そのようなものとしての切り口を見せている歴史をうけつがなければならず、しかもそこから健やかな革命的教訓を最大の可能において引き出して来なければならないのであるから。
 率直に感想を述べると、私には村山や中野の話の中に、何か腑に落ちず、居心地わるい心持を与えられるものがある。あのようにいい頭といわれる頭をもっていて、自分たちが、転向するようになった気持が自分にもよく分らないといってそれを押すのは、事情もあろうがなぜなのであろう。私には杉山氏のように皮肉にだけ思うことができない。細いこと、筋のとおったことは分らないが、とにかく〔五字伏字〕(復元不可能)得だという点だけには悟りが早かったのだという意地わるい言葉が通用するであろうか? 私はくちおしい気がするのである。
 谷崎潤一郎氏が「春琴抄」を書いて、世評高かった頃、その作品を読み、私はある人から見たらおそらく野蛮だといわれるであろう一つの考えにとらわれた。それは、谷崎氏のように精力的作家でも、日本の作家は初老前後となれば落ちつくさきはやっぱりここかという失望である。
 佐藤春夫氏、谷崎潤一郎氏は深いきずなによって結ばれている二人の作家であるが、作家としての性質は違った二つのものであると思っていた。谷崎氏が日本文学に構成力が薄弱であることを不満とし、自身の抱負を文章によって述べていた頃の脂のきつい押し、あるいは、初期の作品が内包していた旺盛な生活力と「春琴抄」が示しているいわゆる完成の本質とをくらべて見て、私は大谷崎という名で呼ばれる一人のすぐれた作家でさえ、文学の手法や傾向をとおして支配している日本の封建制の根強さに、新たな反省を呼びおこされたのであった。
 ブルジョア・インテリゲンチアの作家でもロマン・ローランやジイドは老いてますます叡智と洞察とをひろめ、恐れを克服し、人生の真理に肉迫して行っている。それと対照して、日本の大作家は壮年期の終りにもう「描写など面倒くさくなり」(谷崎)知的発展においては勇気を失い、隠居をしてしまうのは、(窪川の言葉を借りれば)自己の喪失に陥るのはどういうものであろう。日本でいう大作家の風格というものの内容は、古い文人時代[#「文人時代」に傍点]の内容から、社会性においてそう大して新しくなっていると思われないのである。あのような文学的発
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