もつもの以外に、大たい雅量と常識とをもって対する態度であるが、どの文章の中にも二つの共通した点が、強調されてあった。それは、これまでいわゆる転向に関しての作品を発表した幾人かの作者たちが、その作品の中で肝心なものであるはずの転向の過程と、それ以後の思想的傾向を明らかにしていないということである。
いつからとなく私の心に生じている疑問と探究心とは、これらの注意によって一層鋭くされるのを感じる。本当に、文学における才能や作家としての閲歴のある村山、藤森、中野、貴司その他の人々が自他ともに大きい〔十三字伏字〕(復元不可能)経験の中から、どうして人の心を深くうち、歴史というものをまざまざ髣髴せしめるような制作をしないのであろうか。
先頃立野信之が「友情」という小説を書いた。それを村山が評した言葉のうちに、主人公の態度を全運動とのつながりにおいて批判していない点が不足であるという意味のことがあったのを覚えている。けれども、村山も自身のことになると、転向しても立派な小説が書ける、だがそれには「あらゆる弱点をすっかり自己の前にさらけ出し切ってしまわなければ駄目なのだ」「赤裸々生一本のものとして現実に向い、文学に向って行かなければ駄目なのだ」と、どちらかといえば主観的なものごしで良心を吐露している。そして過去の運動がその段階において犯していたある点の機械的誤謬を指摘することで、今日の自分がプロレタリア作家として存在し得る意義を不自由そうに解明しているのである。(作家的再出発)
プロレタリア文学運動が成熟すればするほどその裾は幅広く、襞は多いものとなって前進してゆくであろうから、もとより私は自分をもこめるさまざまの作家が、それぞれの可能性の上に立って、たっぷり仕事をやってゆき、その質を高めてゆくことを自然であると信じている。
もっとも正直な打ちあけ話をすると、私はある初歩的な時期、一つの疑問をもったことがある。それは、どうしてプロレタリア文学運動の中では、一例をあげれば職場でのストライキが高潮に達した時にあぶなっかしい幹部として監視をつけられたというような話のある人や、左翼の政治的活動から自発的に後退の形をとってきたような人が、組合にいたとか、組織についていたとかいうその出身や経験を評価され、堂々と通用しているのであろうかと、けげんに思った時代があった。そのような素朴な、歴史
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