まで、この問題にふれている。『新潮』の杉山平助氏の論文、『文芸』の大宅氏の論文を熱心に読んだのは、恐らく私ひとりではなかったであろうと思われる。二人の筆者は、いわゆる転向の問題賛否それぞれの見解を今日の現象の上にとりあげ、内容の分類を行い、問題の見かたをわれわれに示した。
 そもそも転向作家に対してその行為を批判し得るのは、抵抗しつづけている者だけであるという結論に至るらしい大宅氏の意見はもっともであるとうなずかれた。
 転向という文字が今日のような内容をふくんで流布するようになったのは、正確には去年の初夏以来であり、(佐野・鍋山・三田村その他共産党指導者たちが従来の帝国主義侵略戦争に反対するコンムニストたる立場をすてて、日本の中国に対する侵略行為に賛成し、支配権力に屈伏した時から)プロレタリア文学運動との関連で実際的内容をもつようになったのは特に今年になって、プロレタリア文学者・戯曲家その他の屈伏があらわれてからのことであると思われる。基本的にいなかるものから、どう転向したかということを明確に批判し得るのは[#「るのは」に×傍点、伏字を起こした文字]、抵抗者たち[#「抵抗者たち」に×傍点]であり、文学運動の面についてこの問題をとりあげるとすれば、ブルジョア文学においてではなく、問題の本質はプロレタリア文学の問題であるというのも、正当な理解であると考えた。
 大宅氏は、嘗てのプロレタリア評論家たちが、この問題を自身の問題として真面目にとりあげず、転向謳歌者の驥尾に附している態度を慨歎している。杉山氏は硬骨に、そういう態度に対する軽蔑をその文章の中で示しているのである。
 プロレタリア文学の運動は、昨今、非常に意味ぶかい第二次的な発展的時期に入っているということは、広い目で見ると、逆に大宅、杉山両氏によって摘発されたもとの指導的評論家の退転という事実そのもののうちにも察しられるように思う。急激なテンポで進む情勢は、階級的文学をひどい勢で推しつつある。現在は、タイプとして新しいプロレタリア文学の活動家がまだ全貌を現すところまで成熟せず、健康な伝統と影響とは、勤労大衆のうちに文学的に未熟なものとして保有されている。いろいろな雑誌に対する読者からのこまかい反応を観察することによって、その事実は確信されるのである。
 ところで、転向作家についての諸家の意見は、ある特殊な動機を
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