は、東と西に低地をもつ林町辺の地形がくっきりむき出された。そして、又おのずからこれまでにない眺望を与えている。森鴎外が住んでいた家は、団子坂をのぼってすぐのところにあった。坂をのぼり切ると一本はそのまま真直に肴町へ、右は林町へ折れ、左の一本は細くくねって昔太田ケ原と呼ばれた崖沿いに根津権現に出る。その道が、団子坂から折れて入ったばかりの片側は柵の結ばれた崖で、土どめをうった段々が、崖下へ向ってつけられていた。その崖の上には下町一帯が見晴らせて、父に手をひかれて吉原の大火をその崖から眺めた。丁度日曜日で、目黒の不動へ、筍飯をたべにつれられて行ったそのかえり道に弟と私と二人で、それぞれ父の手につかまって来た。夕方、人々がさわいでその崖上に集り、火事をみているのであった。
 鴎外が、そういう見晴らしに向って立っていた自分の二階を、観潮楼と名づけた由来も肯ける。没後、そちらの門から出入りする部分には誰かが住んで、肴町への通りにある裏門に表札がかけられていた。おとなしい門の上に古風な四角いランプ型の門燈が立てられて、アトリエらしい室が見えた。門のすぐわきにバスの停留場があった。
 空襲ではそこも焼かれた。翌る朝、鼻をつくやけあとの匂いとまだ低く立ちこめている煙の間に、思いがけず鴎外の大理石胸像がのこっていた。ぐるりに迫る火のほてりの熱さを生きた体そのまま耐えがたく思いやって、家の人々が逃げるその際にかぶせたらしいバケツを、その大理石像はかぶっていた。バケツをかぶらされてそこの焼あとにのこっている大理石の鴎外は、通りすがった私の胸に刻みこまれた。
 時を経た今、その焼あとは清潔なおかぼの畑になっている。夏の頃日に日に伸びるそのおかぼ畑の中で、大理石の鴎外は無帽の髪に夜つゆをうけていた。住む二階を観潮楼と名づけた、その家と庭との工合からも、勢よく上にはねた髭をつけた鴎外の顔は、果もない下町の廃跡に向って立っている。きっと、頼んだひとのこのみであったのだろう。書斎の鴎外ではなくて、おそらくは軍医総監としての鴎外が、襟の高い軍服をきっちりつけた胸をはり、マントウの肩を片方はずした欧州貴族風の颯爽さで彫られている。立派な鴎外には相異なく眺められた。けれども、私はやっぱりそういう堂々さの面でだけ不動化されている鴎外を気の毒に感じた。「雁」や、日露戦争時代の百首の和歌、「阿部一族」その他の
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