輩の車掌が、手帖を出し、短くなった鉛筆の芯《しん》を時々|舐《な》めながら何か思案している。市電の古い連中では株をやっているものが少くなかった。肩からカバンを下げていても、そうやって自分ひとりの世界の中に閉じこもっているその老車掌の自分中心にかたまった顔つきを見ていると、ひろ子の心には重吉からはじめて来た手紙の一節が無限の意味をふくんで甦った。重吉は、なかで注意して行っている健康法をしらせ、さて、外でも変ったことがあるだろう。歴史の歯車はその微細な音響をここには伝えないが、この点に関しては、何等の懸念もない。そう云ってよこした。何等の懸念もない。――だが、ひろ子はその不自由に表現されている言葉の内容を狭く自分の身にだけ引き当てて、自負する気にはとてもなれなかった。かりに自分の身にだけひき当てて解釈したとして、どうして「何の懸念もない」自分であろう。応援の挨拶一つ、正しい機会をつかんで喋れないのに。そういう未熟さがあっちにもこっちにもあるのに。
 上野を大分過ぎたころ気がついて車内を見わたすと、いつの間にか、乗客の身なりから顔の色艶、骨相までが最初柳島で乗った人々とは違って来ているのに、
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