うに思った。
「こんどのところは――職場じゃないの?」
「…………」
ひろ子は、若い、正直なタミノに向って、こみ入った自分の愛情が迸《ほとばし》るのを感じた。タミノは、おそらく臼井に何か云われて、彼女には職場での活動よりもっと積極的なねうちを持っているように考えられる或る役割を引きうける気になっているのではないだろうか。ひろ子としては、若い女の活動家が多くの場合便宜的に引きこまれる家政婦や秘書という役割については久しい前からいろいろの疑問を抱いているのであった。ひろ子は、なお下唇を捩るような手つきをして考えていたが、ゆっくりと云った。
「あっちじゃ、女の同志をハウスキーパアだの秘書だのという名目で同棲させて、性的交渉まで持ったりするようなのはよくないとされているらしいわね。――何かで読んだんだけれど」
ひろ子たちの仲間で「あっち」というときは、いつもソヴェト同盟という意味なのであった。
「ふーん」
今度はタミノが顔をあげた。眉根をキと持上げるような眼でひろ子を見て、何か云いかけたが、そのまま黙って針を動かしつづけた。
やがて、靴下つくろいを終って、タミノは、維持員名簿をめくりながらハトロン封筒へ宛名を書きはじめた。
夜が更けて、風が当ると庇《ひさし》のトタンがガワガワ鳴った。その木枯しが落ちると、道の凍《い》てるのがわかるような四辺の静けさである。タミノが万年筆の先を妙に曲げて持って字を書いている。減ったペンと滑っこい紙の面とが軋《きし》みあって、キュ、キュと音をたてている。
そのキュ、キュいう音を聴きながら自分も仕事をつづけているうちに、ひろ子の心は一つの情景に誘われた。六畳、四畳半、そういう家には遠山に松の絵を描いたやすものの唐紙がたっている。そのこっちのチャブ台で、ひろ子が、物を書いていた。もう暁方に近かった。ひろ子がくたびれて、考えもまとまらずにあぐねていると、その唐紙のあっちから、丁度今きこえているようなキュキュというペンの音がした。唐紙のこっちからでも、書かれてゆく字のむらのない速力や、渋滞せず流れつづける考えの精力的な勢やを感じさせずに置かない音であった。ひろ子は、自分の手をとめたなり、心たのしくその音に耳を傾けていた。それから、唐紙ごしに、
「ちょっと」
重吉に声をかけた。
「――何だい?」
「……デモらないで下さいね」
ひとり口元をほころばせ、様子をうかがっていると、重吉は、突嗟にひろ子の云った言葉の意味がわからなかったらしく、唐紙のむこうで、居ずまいを直す気勢であったが、程なく、
「――なアんだ!」
笑い出した。
「そんな柄でもないだろう」
じきにまた、キュキュ音がしはじめた。――
ひろ子には、タミノがこれから経てゆくであろう一つの階級的な立場をもった女としての一生が、自分の経験するよろこび、苦しみの一つ一つと、情熱的に結び合わされたものとして感じられるのであった。
重吉が検挙されてひろ子も別の警察にとめられていた時のことであった。ひろ子は二階の特高室の窓から雀の母親が警察の構内に生えている檜葉《ひば》の梢に巣をかけているのを見つけた。
ひろ子は覚えず、
「マア、可哀想に! こんなところに巣なんかかけて」
と云った。するとそこにいあわせた髭の濃い男が、
「なに可哀想なもんか! 安全に保護されることを知ってるんだよ」
そう云って、ジロジロひろ子を上へ下へ見ていたが、
「君なんぞも子供を一人生みゃいいんだ。さぞ可愛がるだろうな、目に見えるようだ」
ひろ子は、その男の正面に視線を据えて、
「深川をかえして下さい」
そう云った。男は黙りこんだ。
ひろ子がそこから帰って、託児所へ住むようになったばかりの夏の末、お花さんの友達が現場で大怪我をして病院にかつぎこまれたことがあった。
ちい坊を託児所にあずかって、下の四畳半へねかしたまま、団扇《うちわ》で蚊を追い追い、ひろ子はそのわきで本を読んでいた。やがて眼をさましたちい坊は、泣き出してどうしてもだまらない。鼻のあたまに汗をかいて泣きしきるので、ひろ子はああと思いつき、その思いつきに自分で嬉しがりながら、
「さア、これでどう? ちい公もこれじゃ泣けまい?」
そう云いながら白いブラウスの胸をひろげて、ひろ子は自分の乳房を泣いている赤坊の口元にさしつけた。ちい公は、その時分からしなびて、顔色や足の裏の血色がわるい児であったが、ほそい赤い輪のように口をひろげ、さぐりついてやっとひろ子の乳首をふくんだかと思うと、すぐ舌でその乳首を口の中から圧し出して前より一層激しく泣きたてた。三度も四度もひろ子はそれをくりかえした揚句、到頭あきらめて自分も困ってききわけのある子に云うように挨拶した。
「いやじゃあこまったことね。――でも小母ちゃんがわるいんじ
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