ゃないのよ、ちい坊や」
それから一時間あまり経って北海道生れのお花さんが、帰って来た。
「すみませんでしたね。ふー、たまんね。何んとした暑さだろう」
お花さんは立ったまま帯をほどき、大柄な浴衣《ゆかた》をぬぎすて、腰巻一つになった肩へしぼって来た手拭をかけ、
「ホーラよ、泣きみそ坊主!」
長く垂れ下って黒い乳首をあてがった。鼻息を立ててちい公はそれへかぶりついた。ひろ子さえほっとする安堵の色が赤坊の顔にあらわれた。
ひろ子はその様子をわきからのぞきこみながら、さっきの話をした。お花さんは、無頓着に生えぎわの汗を肩へかけた手拭でふきながら、
「そりゃ吸わないわね、だって、のましてる乳でなけりゃ、ひやっこいもん、いやがるよウ」
ひろ子にはその夜のことが忘られなかった。この自分の乳首が子供を生んだことのない女のつめたい乳首であるということ。そして、見た目は見事な体のお花さんが、栄養不良でおむつから出る二つの小さい足の裏が蒼白いような赤子を、暖みだけはある乳房に辛くも吸いつけている姿。この社会での女の悲しみと憤りの二つの絵がそこにあるように、ひろ子の心に印されたのであった。
その晩、床に入って電燈を消してから、ひろ子は、さり気ない穏やかな調子でタミノに云った。
「ねえ、あなたの将来のあるいいところや積極性を、個人的なあいまいなゆきがかりで下らなくつかってしまわないようにしなさいね」
「…………」
「おせっかいみたいでわるいけど、私たちは仕事をやってみて、その実際でひとを見わけるしかないんだもの……ねえ。そうでしょう? 臼井さんとあなたはまだ仕事らしい仕事をやって見ていないんだもの――気心のしれない気がする……」
タミノが寝床の中で身じろぎをする気配がした。よっぽどして、タミノは素直な調子で、
「――そう云いやそうだねえ」
ゆっくりそう云って、溜息をつくのがひろ子に聞えた。
六
朝っぱらから所轄の特高が託児所へ来た。何ということなしその辺をうろつき、
「豊野が来るだろう」
と、土間にある履物を穿鑿《せんさく》的に見た。豊野などという名前を、ひろ子たちは知らなかった。
「何、しらん? うそつけ、ちゃんと連絡に出ているところを見た者があるんだ」
それは明らかに云いがかりで、そのまま帰りかけたが、
「おい、ありゃ、何だ!」
ステッキの先で指すのを見ると、それはこの間溝にうちこまれたあと、また立て直されている託児所の標識であった。
「何って――わかりきってるじゃないか」
タミノが出て云った。
「もう一年もあすこに立ってるんだもの」
「立てていいって誰か云ったのか?」
いかにも煩《うる》さそうに、タミノが、
「だって、立ってるんだもの。ここがこうやってあるんだから――」
と云いかけると、その男はおっかぶせて、
「そりゃ分らんよ」
といやに意味深長に云った。
「こっちで、ない[#「ない」に傍点]、と見りゃ、在りゃしないじゃないか。日本プロレタリア文化連盟だって、当人たちはある[#「ある」に傍点]つもりらしいが、我々の方じゃ、あらせ[#「あらせ」に傍点]ちゃいないんだ」
タミノは、その男が去ると、地べたへ唾を吐きつけて云った。
「チェッ! すかんたらしい!」
その次の日の午後二時頃、ひろ子が二階でニュースの下書きをしていると、誰かが一段、一段と重そうに階子をのぼって来る跫音がした。きき馴れない足どりであった。ペンを持ったまま振り向くと、そこには鍾馗タビの稲葉のおかみさんが、風呂敷包みを下げたなり上って来ている。包みからは大根がはみ出していた。
「ああ、小母さんなの……どうして? 何か用?」
「大谷さん、ここへき[#「き」に傍点]なかった?」
「――来ませんよ」
大谷とは、今夜会う約束なのであった。稲葉のおかみさんは、平常でない目のくばりで、
「じゃア、やっぱしそうだったんだろか」
ひろ子は、自分でも知らない速さで椅子から立ち上った。
「どうした?」
「――あたし、見ちゃったんだヨ」
その声の表情にはひろ子をぞっとさせるものがあった。
おかみさんの家が講の当番なので、今日は休んで買い出しに出た。駅前の大通りをこっちの方へ曲ると、前の方を大谷らしい男が、もう一人別の若い男と連れ立って歩いて行くのが見えた。稲葉の神さんはもう少し近づいてみて大谷だったら声をかけようと思ってうしろからついてゆくと、ラジオ屋の角で若い方の男が別れた。二つばかり横丁をすぎた時、駄菓子屋の横から一人の洋服の男が出て来たと思うと、早、もう二人どこからか出て来て丁度前後から大谷を挾んだ。
「おい!」
何とかいうのと、大谷がすりぬけようとするのと、その大谷をすばやく三人が囲んでちょっとくみ合いがはじまったのと、稲葉の神さんの目
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