後のことであった。赤坊二人が二階で昼寝している。その間にと、ひろ子が上り端でおしめを畳んでいると、スカートへ下駄をつっかけたタミノが遠くからそれとわかる足音を立てながら外から戻って来た。土管屋と共同ポンプのわきまで来ると、
「ちょっと、どうしたのさァあの看板、ひっくり返ってるじゃないの」
と大きな声を出した。庭先に遊んでいた二郎が、
「飯田さん、なんなの? ネ、何んだってば、なんのカンバンが、しっくりかえったのかい」
 五つの袖子や秀子、よちよち歩きの源までタミノのまわりにたかった。
「橋のわきに、白い三角のものが立ってたろう? あれが溝へおっこちてるのよ」
 子供たちぐるみ上り端の前に立った。ひろ子は、怪訝《けげん》そうに、
「だって――あれそんなはじっこに立ててありゃしなかったじゃないの」
と云いながら、自分も土間へおりた。蛇窪無産者託児所と白地へ黒ペンキで書いた標識は、土管の積《かさ》ねてある側、溝からは一間以上も引こんだ場所に、通行人の注意をひくように往来へ向って立ててあったはずである。
「ホラ!――ね? 誰がやったんだろう、こんなわるさ」
 なるほど、枯草の生えた泥溝の中へ、頭を突こむような恰好で標識がぶちこまれている。
「今朝は何ともなっていなかったわねえ」
「うん、出がけには気がつかなかったわ」
 板橋の上へ並んで子供らは驚きを顔に現し目を大きくして見ていたが、タミノに手をひかれていた袖子がいきなり、オカッパをふり上げて叫んだ。
「ね、あれ、うちの父ちゃんがこしらえたんだね」
「そうよ。わるい奴、ねエ」
 ひろ子は、土管の側からそろそろと片脚をおろし、枯草の根っ株を足がかりに、腰を出来るだけ低くして手をのばして見た。そうしても、鯱鉾立《しゃちほこだ》ちをしている標識までは、なお二尺ばかり距離があった。
「ちょっと! あなたまでおっこっちゃ、やだよ」
「大丈夫」
 その時道路のむこう側に洗濯屋の若い者が来て自転車をとめ、女と子供ばかりでがやついている様子を珍しげに眺めていた。
「――そりゃ、綱でもなけりゃ無理でしょう」
 手の泥をはたき落しながら、ひろ子も断念して、
「袖ちゃんのお父さんが来たら上げて貰おう、ね」
 皆で引かえす道で、二郎がしつこく訊いた。
「ね、だれがやったの? どうしてあんなにすてたんだろ」
 腹を立てていたタミノは、赤い頬っぺたを四角いようにして、袖子の手をひっぱって大股に歩きながら、
「きっと、藤井のごろつきの仕業だ。――ぐるんなってやがるんだもの、何をするかしれたもんじゃない」
 酔っぱらいなどの気まぐれな所業でないことは、明らかであった。
「ポンプのことだって、スパイの奴がたきつけてるにきまってるんだもの」
 おとといの朝、臨時に託児所を手伝いに来ている女子大出の小倉とき子が、井戸端でおしめの洗濯をしていた。水を流す音がしたと思うと、土管屋の台所口のガラス戸が開いた。すると、主人の政助が顔を出し、
「あんまり方図なくつかわれちゃこまりますよ。井戸をつかうのは、そっち一軒じゃねえんだからね、勝手に自分の方でばっかりつかわれちゃ、こっちじゃ、ゆっくりおまんまをとぐひまもありゃしねえ」
と云っている声がした。
「どうもすみません」
 洗い上げたおしめをもって物干竿へまわる時、とき子は四畳半にいたひろ子と窓越しに顔を見合わせ、荒々しい扱いに不馴れなものの、訴える表情を浮べて笑った。ひろ子にはとき子の心の状態がよくわかり、却って、何も云わなかった。
 ひろ子は考えにとらわれた顔つきで、先へ家へ上った。
「さて、と。御苦労様、どうだった?」
 タミノは、とんび足に坐ったスカートのポケットからハトロン紙の小袋を出し、一つ一つふるって白銅三枚と銅貨を十一二枚畳へあけた。
「依田の小母さん、二度目なんでねえって、渋ってた。これっきりか!」
 市電争議の基金を託児所でもあつめるために袋がまわしてあった。
「直接のことじゃないから、何てったってちがうねえ。本当に勝つかどうか分りもしないのに、弾圧くうだけ馬鹿らしいっていうところもあるらしいね」
 市電の従業員の中には、労農救援会の班がいくつか出来ていた。蛇窪が赤坊寝台を買う必要に迫られた時、柳島では班が中心になってその基金を集めた。その金で今ある三つの籐の寝台が備えつけられたのであった。藤田工業、井上|製鞣《せいじゅう》、鍾馗《しょうき》タビ、向上印刷などへ出ているここの父さん母さん連は、そういうことから市電の連中と結ばれた。隣り同士の義理堅さというようなところもあって、一回の基金募集の時は三円近く集った。然し、おッ母さん連は、自分達が出ているそれぞれの職場で市電従業員のために基金を集めるというような活動をすることは概して進まず、綱やのお花さんが、消費組合の即
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