巻に顎をうずめ、袂をかき合せている。
「エー、お待たせしました。……エー、二十八番、二十八番は六号へ。六号。エーそれから三十番」
その声につれて思想関係らしい四十ばかりの細君風の女が、薄べりを敷いた床几《しょうぎ》から立ち上り、ショールへ片手をかけ、黒いラッパを頼りなげに下から振り仰いだ。
「エー、三十番――あなたの面会しようとする人は他の刑務所に送られました」
ザザ鳴る雑音に遮られ、他の刑務所というのが、サの刑務所と云われたようにひろ子の耳にも聞えた。おとなしい細君風の女は、思わず一足のり出して、
「え?」
と、黒い拡声機に向って女らしく首をかしげてききかえした。が、スイッチはそれきりプツと音を立てて切れ、その女のひとは何とも云えない、困惑の身ぶりで、恰度《ちょうど》旧劇の女形が途方にくれたときのしぐさにやるあのとおりの片足をひいた裾さばきでひろ子の方を見た。
ひろ子は同情に堪えない気がした。
「どこかよその刑務所へいらしたっていうらしかったわ。事務所へ行ってきいて御覧なさい、あすこから入っていらしって」
ペンキで塗られた二階建の玄関口を指さした。
一時間以上待って、ひろ子はやっと二三分重吉と話すことが出来た。
ひろ子は、痛い程柵の横木へ自分の胸を押しつけ、重吉の体の工合をきき、中風で寝たっきりの重吉の父の様子を話すと、いつも註文の本が入らないで本当にすみませんと云った。託児所の逼迫《ひっぱく》した自主的やりくりの生活の中で、ひろ子は本を借りに歩く交通費さえないことがあった。少し金があるときは時間の余裕がなく、両方そろった時をのがさず、重吉の最低限の必要のまた何分の一かを満たす差入れをするのであった。いやがらずに本を貸してくれる人は概してひろ子の欲しい種類の本を持っていなかった。持っていそうな人々は、本を人に貸すことを一般的にきらった。そういうところに重吉が察しる以上の不便があるのであった。
重吉は、突然面会につれ出され、立ったまんまで宙で、一時にいろいろ思い出さなければならないので、工合わるげに眉を動かしたり、足を踏みかえたりしながら本の名をあげ、
「しかし、ひろ子の都合もあるだろうから、あんまり無理はしないでいいよ。よしんば本の読めない時があっても我々はいろいろ有益なことを考えているしね」
と云った。
これは、特に告げるのだがという心持をこめて、ひろ子はゆっくりと、
「私、けさは柳島へまわって来たんで、こんな時間になってしまった……。託児所の仕事がひろがって来ていて、大人のことにまでのびているもんだから――御無沙汰も、わたしが怠けていたからじゃなかったのよ。電車の父さんたちだって負けちゃ仕様がないでしょう? だからね」
そう云って、眼で笑った。
「ふーん」
重吉は、もう窓ぶたをしめる構えでそれを引っぱる紐に手をかけている看守の方を一瞥し、その視線を真直ひろ子の顔の上に移し、兵児帯《へこおび》をグッと下げるような力のこもった体のこなしで云った。
「もし、ひろ子が『病気』にでもなった時、急にこまらないように、出来たら少し金をいれておいてくれ」
重吉のそういう言葉を、ひろ子は突嗟に自分たちの生活で理解できる限りの豊富な内容で理解した。重吉は本当は金のことを、云ったのではなかった。ひろ子の託児所もまきこまれている市電の闘争では、また自分たちが会えなくなる時が来るかも知れない。そのことを重吉は諒解し、諒解しているということでひろ子をはげまし劬《いたわ》ってくれたのであった。
冷たい共同便所に似た面会所から出て、日のよく当っている門へ向って帰りかけながら、ひろ子は自分も矢張面会を終ってかえるほかの女のひとたちと同じような足つきで砂利の上を歩いている、そう思った。会えて嬉しい、そんな一言では云いつくされないものがひろ子の体の裡にのこされてある。
門を出るとすぐそこの広い砂利のところに、チャンチャンコを着せられた小猿が一匹来ていた。その小猿をぐるりと囲んで背広の男が二三人とピストルを吊下げた守衛もまじって、立ったり、しゃがんだりして笑っている。猿まわしの背中につかまっている猿ともちがう、どこかのその小猿は、黒い耳を茶色のホヤホヤ毛の頭の両方につき立て、蒼ずんだ尻尾を日向の砂利の上にひきずってしゃがみながら、皺だらけの顔を上下にうごかし、せわしなく目玉をうごかし、こせこせ何か食っている。
「こうしているところを見るとなかなか可愛いもんだね、ハハハハ」
それは貧相ないやしげな猿であった。人間に向ってピストルを下げている人は猿になら気やすく愛想を云って笑っていた。ここには、人間についてすべての愛嬌を禁止した規則があった。けれども、猿となら笑っても反則ではなかったから。――
四
数日経ったある午
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