輩の車掌が、手帖を出し、短くなった鉛筆の芯《しん》を時々|舐《な》めながら何か思案している。市電の古い連中では株をやっているものが少くなかった。肩からカバンを下げていても、そうやって自分ひとりの世界の中に閉じこもっているその老車掌の自分中心にかたまった顔つきを見ていると、ひろ子の心には重吉からはじめて来た手紙の一節が無限の意味をふくんで甦った。重吉は、なかで注意して行っている健康法をしらせ、さて、外でも変ったことがあるだろう。歴史の歯車はその微細な音響をここには伝えないが、この点に関しては、何等の懸念もない。そう云ってよこした。何等の懸念もない。――だが、ひろ子はその不自由に表現されている言葉の内容を狭く自分の身にだけ引き当てて、自負する気にはとてもなれなかった。かりに自分の身にだけひき当てて解釈したとして、どうして「何の懸念もない」自分であろう。応援の挨拶一つ、正しい機会をつかんで喋れないのに。そういう未熟さがあっちにもこっちにもあるのに。
上野を大分過ぎたころ気がついて車内を見わたすと、いつの間にか、乗客の身なりから顔の色艶、骨相までが最初柳島で乗った人々とは違って来ているのに、ひろ子は新しく目を瞠《みは》った。大東京の東から西へ貫いて、ひろ子は揺すぶられて行っているのだが、同じ電車が山の手に近づくにつれて、乗り降りする男女の姿態は、煤煙の毒で青い樹さえ生えない城東の住民とはちがう柔軟さ、手ぎれいさ、なめらかさで包まれているのであった。
ひろ子は、新宿一丁目で電車を降りた。そして、差入屋の縦看板の並んだ、狭苦しい通りに出た。行手の正面に、異様に空が広く見える刑務所の正門があった。門のそとに、コンクリート塀の高さと蜒々《えんえん》たる長さとを際立たせて、田舎の小駅にでもありそうなベンチがある。そのベンチの上のさしかけ屋根は、下から突風で吹き上げられでもしたように、高く反りかえっている。雨も風もふせぐ役には立たなかった。
ひろ子はこの道を来て、森として単調な長い長いコンクリート塀の直線と、市中のどこよりもその碧さが濃いように感じられる青空を見上げるにつけ、胸を緊《し》めつけられるようにその不自然な静寂を感じるのであった。
砂利を鳴らしてひろ子は入って行った。人の跫音のよく響くようにというためであろう。どこにも、かしこにも砂利がしいてあった。
内庭に面して別棟に建っている待合室は、男女にわかたれていた。ガラス戸をあけると煉炭の悪臭が気持悪く顔へ来た。割合すいていて、毛糸編の羽織みたいなものを着て、くずれた束髪にセルロイドの鬢櫛《びんぐし》をさした酌婦上りらしい女が口をだらりとあけて三白眼をしながら懐手で膝を組んでいる。そのほか四五人である。十二時から一時までは面会を休む。あと十五分ばかりで一時という刻限であった。
ひろ子は売店で十銭の菓子と、のりの佃煮を差入れ、待合所の外の日向に佇んでいた。内庭には松などが植えこんである。面会所は左手の奥にあったが、初めて来た時、ひろ子は勝手がわからずそこが便所かと思って行きかけた。そういう間違いも不思議でないような見かけであった。門扉の外でタイアが砂利を撥《はじ》きとばす音がすると、守衛が特別な鍵で門をあけ、そこから自動車が一台内庭へ入って来た。三四人の男がその車から下りて、敬礼を受けつつ別棟の建物の中に入って行った。はなれたところからその様子を眺めていて、ひろ子は、重吉がここへ来たとき玄関の石段を登るに、拷問ではれた脚の自由がきかないで手をついてあがったと人からきいた話を思い出した。
気になって時計を見たが、まだ五分も経っていない。待つ間はこんなに永いが、いざ顔を見て口を利く時になると、幾言もまだ話したと思えないのに、もういい、と窓をおろされる。期待の永さと、短い間にひどく緊張して気をはりつめるせいで面会はくたびれた。面会窓があいた瞬間に、やあ、と笑顔になりながら大きい両肩をゆっくり揉み出すようにのり出してくる重吉の身ぶりや、いつも落ちかかって来る窓ぶたに語尾を押し截《き》られるように、じゃ元気で、という重吉の声の抑揚は忘られなかった。次に会うまでに一ヵ月の時がたっていても、最後に見た重吉の眼の中や、唇のあたりに浮んでいた細かい表情はそのままの暖かさで、ひろ子の心にのこっているのであった。
ひろ子はハンドバッグをあけて、ひびの入った小さい鏡をのぞきこんだ。そしてハンケチで鏡のごみをふき、ハンケチの別なところを出して堅く丸め、頬っぺたの上をきつくこすった。皮膚のいくらか荒れた頬に少し赤味がさした。
待合所の壁にとりつけられている拡声機に、ようやくスイッチが入って鳴り出した。ガラス戸をあけて覗くと、雑音が混って聞きとり難い呼声を間違いなく聴こうとして、女連は今までよりなお深く襟
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