家社会主義は、労働者の幸福とどんなに反対のものであるかということについて、誰にでも呑みこめるような説明をひっぱり出そうとしているのかと思ったら、そうでもなくて、山岸の曖昧な、階級というものの対立する関係の説明をぬいた答弁だけで、反駁さえも加えられずに終った。そして、
「議長!」
 次には、まるで別な話のように、こんな提案がされた。東交はスローガンとしてファッショ打倒をかかげているが、俺はそのスローガンに反対だ。東交の規約には、政党、政治に関係なく全従業員の経済的利益を守るとある。それだのに、ファッショ打倒なんかというスローガンをあげることは規約を無視している。だから、
「その点がはっきりしねえうちは、俺あもう組合費は出さんつもりだ」
「チャッカリしすぎてるぞ!」
「下田は何だヨ!」
 それは、東交内で有名なダラ幹で新聞にさえその御用的立場はすっぱぬかれていた。
「ファッショのヤタイ店、ひっこめ!」
「議長! 議場整理!」
「みなさん、静かに願います。順々に発言して下さい!」
 議長は形式的にそう云ったぎりで、支部長の山岸はその間ずっと片手をポケットにつっこんだなり、小机の端に頬杖をつき、おきているのか居睡りしているのか、瞼の重い目をつぶって場内を混乱にまかせている風である。散々ごやごやしぬいて肝心の討論の中心ははぐらかされ、全体の気分がだれて散漫になった時分、議長はさも潮どきという風に色の悪い顔をのび上らせ、
「じゃア、もう時間が来ましたから」
と決議を求めた。柳島車庫は、何処かがストに立ちさえすれば[#「何処かがストに立ちさえすれば」に傍点]、直ちに罷業に入るという奇妙な決定をしたのであった。

        三

 事務所の裏口から出て、コークス殼の敷かれた長屋の横丁を歩いて来るうちに、ひろ子は苦しい、いやな心持がつのって来た。
 それは複雑な心持であった。東交が、全く従業員の高揚を引止める役にしか立っていない。それだのに、自分はうまく幹部に扱われて実質的な激励の役にも立たない前座で、応援のことを話させられてしまった。その失敗が今はっきりと感じられた。ひろ子が情勢をよく見ぬいて自分の話をあとに押えておくだけの才覚があったら、全体の気分があんなにだれた時、少しは引緊める刺戟にもなったかもしれまい。山岸ははじめっからそれを見越して行動した。大谷が来ないと云ったとき、山岸は笑っておだてるようなことを云った。それも、ひろ子の顔を屈辱で赧《あか》らめさせた。山岸がひろ子を後で喋らせなかったのは、すれきった彼の政治的な技術なのであった。
 広い改正道路へ出る手前に新しく架けられたコンクリートの橋があった。片側通行止で、まだ工事につかったセメント樽、棒材、赤いガラスをはめこんだ通行止の角燈などがかためて置いてある。人が通れる日向《ひなた》の歩道の上で、茶色ジャケツにゴム長をはいた七つばかりの男の児と絣の筒っぽに、やっぱりゴム長をはいたいがぐり頭の同じ年頃の男の児とが、独楽《こま》をまわして遊んでいる。二つの小さい鉄独楽が陽に光りながら盛に廻っているぐるりをめぐって、繩をもった二人の男の児は、シッ、シッ、唾を飛ばしながら力一杯に繩をふり、自分の独楽に勢をつけ、横を何が通ろうが傍目もふらない。その様子を見るとひろ子はなおさら、今出て来た会合と自分に腹が立った。
 歩調をゆるめて腕時計を見、ひろ子は一層おそく歩きながらハンドバッグをあけて、中仕切を調べた。一週間ばかり前に裁判所へ行って貰っておいた接見許可証は、四つに畳んだ端がささくれたようになって入っている。十銭、五銭とりまぜの財布の口をしめ、ひろ子はもう一遍首をかしげるような恰好をしたが、時計を見直すと、今度は地味な黒靴をはっきりとした急ぎ足になって停留場に向った。
 重吉が市ケ谷の未決に廻されたのは、半年程前のことであった。警察には十ヵ月以上置かれた。はじめ半年ばかりの間は、ひろ子まで警察に留められていたのでもとより会えず、ひろ子がかえってからも、重吉への面会は許可されなかった。重吉が未決にまわったことがその日の夕刊でわかって、裁判所へ初めて許可を貰いに行った時、ひろ子は予審判事にこう云われた。
「警察では自分の姓名さえも認めておらんのだから、深川重吉という人物は謂わばいるかいないか分らんようなものだ。然しマア、いろいろの証拠によって、こちらには分っていることだから許可します」
 重吉は白紙で送られているのであった。
 終点から引返しになるそこの電車は空いていた。日の当る側の座席を選んで四角な大きい白木綿の風呂敷包をわきにおいて腰かけ、それに肱をかけながら長くのばした小指の爪で耳垢をほじったりしているモジリの爺さんのほか、乗客はまばらである。前部のドアの横に楽な姿勢でよっかかっている年
前へ 次へ
全15ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング