不決断に引っぱって、のろくさと一つの声が沈黙を破った。
「その第三班の決議ってのは――どういうんかね。俺にゃちょいと分らないんだが――全線立たなくても、ここだけで行こうってのかね」
「第三班ではその気なんだ」
 若い従業員は短く答えて口を噤《つぐ》んだ。
「それなら」
 のろのろものを云っていたその男は俄に居直ったように挑発的な声を高め、
「俺あ、絶対に、その案には反対だ!」
 ひろ子はその声が、さっき自分が立ってゆくとき後の方から「異議なし」と彌次った声であるのをききわけた。
「異議なし!」
 別の声が続いた。
「俺も反対だ! ここっきりなんぞでやって見ろ。馬鹿馬鹿しい。根こそぎやられて、それこそ玉なしだア」
 ひろ子は全身の注意をよびさまされた。異議をとなえているものたちの間には妙に腹の合った空気がある。
「議長!」
「議長ッ!」
 二つの声が同時に競《せ》り合って起り、甲高い方が一方を強引に押し切って、
「そりゃ違うと思うんだ」
と強く抗議した。
「二月の広尾のストのことを考えて見たって分ると思うんだ。部分的ストは可能だし、それがきっかけで全線立つ情勢は現実にもう熟しているんだ。そんなことは誰だって実際現場の様子を知っているもんには分ってるはずだと思う。さもなけりゃ、本部はどうしてああいう指令を出したんだ?」
「議長!」
 万年筆だのエヴァシャープだのを胸ポケットにさしている年配のが、落着いたような声で云った。
「俺は第一班だが……これは個人的意見なんだが、ストをやることに俺は絶対[#「絶対」に傍点]、賛成[#「賛成」に傍点]だ!」
 一言一言に重みをつけてそう云っておいて、
「但し、だ」
 一転して巧に全員の注意を自分にあつめた。
「但し、全線が一斉に立たないならば[#「全線が一斉に立たないならば」に傍点]、ストをやることは、俺は絶対[#「絶対」に傍点]に反対[#「反対」に傍点]だ!」
 ひろ子は胸の中を熱いものが逆流したように感じて唇をかんだ。何とこの幹部連中は狡猾に心理のめりはりをつかまえて、切り崩しをしているのだろう。自分がこの会合で発言権のないお客にすぎないことをひろ子は苦痛に感じた。炭がおこって火になるときだって、どこかの一点からついて全体へうつってゆくのではないか。それだのに――。
 言葉使いの意味ありげなあやに煽《あお》られて、パチ、パチ手をたたいたものがあった。
「力関係を考えないで、何でもストをやろうなんて、それこそ小児病だ。今、ここだけでなんてやれるかい!」
「議長!」
 再び甲高い声が主張した。
「力関係って云ったって、相対的なもんだぜ、放ったらかして、こっちから押さないでいても有利になって来る力関係なんて、資本主義の社会にあるもんか。現に強制調停までにだって、一ふんばりふんばればやれたんだ。それを、天下り委員会にまかしといて、謂わば、いなされたんじゃないか」
「そうだ!」
「異議ナシ!」
「今度だって、本部がこっそりクビキリ候補の名簿をこさえて、さし上げたんだっていう話さえあるじゃないか」
「チェッ!」
 大会の前後に、各車庫から「傾向的」な従業員が六十人以上警察へ引っぱられ、労救員もその中に何人かまじっていた。あらかじめ、そうしてしっかりした分子を引きぬいてしまった経営者側の意企が、こういういざという場合になって見ると、まざまざ分るのであった。ひろ子は益々くちおしく思った。
 全線ストか、さもなければ全然ストには立たない、立っても意味ないという敗北的な考えかたを、指令や方針の解釈に当って争議のはじまりっから、東交幹部の大部分が盛に従業員の心にふきこんで来ていた。情勢がこみ入ると、そういうあれか、これかへの考えかたはどこにでも起りがちであった。亀戸託児所が市電の応援をやりすぎて親たちがこわがりはじめた、その時にもやはり、争議応援を全然打切ろうという意見と託児所ぐらい一つ潰したっていいという見解とが対立して、大谷がその席でその両方とも誤っていることを指摘した。
 度々の弾圧で東交の職場大衆の中には、このいかがわしいかけ引きの底をわって、自分たちのエネルギーを正しい闘争の道へ引っぱり出すだけの組織者、先頭に立つべき指導者がのこされていない。それが、はたで見ているひろ子にさえ分った。
 場内は、立ちこめる煙草のけむりと一緒に益々混乱し、いろんな突拍子もない意見や質問が続出した。
 ストは是非やるべしだ。が、今度こそは百パーセント勝つという保証つきでやって貰いたい。
 そういうのがあるかと思うと、どういう意味か、わざわざ、
「俺は支部長にききたいんだが」
と、国家社会主義とはどういうものかと質問したものがあった。ひろ子はそれをきいて、はじめその質問者は、窮極には資本家の利益を国家が権力で守ってやる国
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