、ひろ子はゆっくりと、
「私、けさは柳島へまわって来たんで、こんな時間になってしまった……。託児所の仕事がひろがって来ていて、大人のことにまでのびているもんだから――御無沙汰も、わたしが怠けていたからじゃなかったのよ。電車の父さんたちだって負けちゃ仕様がないでしょう? だからね」
そう云って、眼で笑った。
「ふーん」
重吉は、もう窓ぶたをしめる構えでそれを引っぱる紐に手をかけている看守の方を一瞥し、その視線を真直ひろ子の顔の上に移し、兵児帯《へこおび》をグッと下げるような力のこもった体のこなしで云った。
「もし、ひろ子が『病気』にでもなった時、急にこまらないように、出来たら少し金をいれておいてくれ」
重吉のそういう言葉を、ひろ子は突嗟に自分たちの生活で理解できる限りの豊富な内容で理解した。重吉は本当は金のことを、云ったのではなかった。ひろ子の託児所もまきこまれている市電の闘争では、また自分たちが会えなくなる時が来るかも知れない。そのことを重吉は諒解し、諒解しているということでひろ子をはげまし劬《いたわ》ってくれたのであった。
冷たい共同便所に似た面会所から出て、日のよく当っている門へ向って帰りかけながら、ひろ子は自分も矢張面会を終ってかえるほかの女のひとたちと同じような足つきで砂利の上を歩いている、そう思った。会えて嬉しい、そんな一言では云いつくされないものがひろ子の体の裡にのこされてある。
門を出るとすぐそこの広い砂利のところに、チャンチャンコを着せられた小猿が一匹来ていた。その小猿をぐるりと囲んで背広の男が二三人とピストルを吊下げた守衛もまじって、立ったり、しゃがんだりして笑っている。猿まわしの背中につかまっている猿ともちがう、どこかのその小猿は、黒い耳を茶色のホヤホヤ毛の頭の両方につき立て、蒼ずんだ尻尾を日向の砂利の上にひきずってしゃがみながら、皺だらけの顔を上下にうごかし、せわしなく目玉をうごかし、こせこせ何か食っている。
「こうしているところを見るとなかなか可愛いもんだね、ハハハハ」
それは貧相ないやしげな猿であった。人間に向ってピストルを下げている人は猿になら気やすく愛想を云って笑っていた。ここには、人間についてすべての愛嬌を禁止した規則があった。けれども、猿となら笑っても反則ではなかったから。――
四
数日経ったある午
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