の出版状態が整理されて、着実な選択にしたがってそれぞれの分野の著作が出版されるようになったらいいということは、一面の真理であり実際でもある。
たとえば、『少女の友』などに描いていた中原淳一氏の抒情画というものが、この頃は見えなくなった。芸術のこととして、また純正な絵画の美を少女たちの感性に高め導いてゆくためにああいう絵が何かの価値をもっているかと云えば、それは決して積極的な意義はもっていないと思える。渡辺与平、竹久夢二などがその時代の日本の空気のもっていた女の解放へ目をむけたロマンティシズムを或る点で表象していたような関係はないのである。
少女時代から、立派な芸術的古典にじかにふれて、その感傷も向上の欲求もその芸術的感覚のなかで成長させてやりたいと願う人々は、そういう情緒を高める力をもたない現代の抒情画の本質は肯《うべな》いかねていたと思う。けれども、その絵の見えなくなった動機が画家そのひとの内部から自発したものでなかったり、ジャーナリズムの文化的成長の表現としての淘汰でなかったりして、全く外部の影響で、きょうは何でも云えるというようなもののちからで消されたとあれば、それにはやはり
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