日記
一九一四年(大正三年)
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)緋《ひ》

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/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)チラ/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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〔大正三年予定行事〕
 一月、「蘆笛」、「千世子」完成

〔一月行事予記〕
「蘆笛」、「千世子」完成
 To a sky−Lark 訳、
「猟人日記」、「希臘神話」熟読
「錦木」

 一月一日(木曜)晴 寒
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〔摘要〕四方拝出席
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 四方拝出席、午後例の如し。
 十六と呼ばれなければならないそうだとでも云わなくっちゃあならないほど今日は私にとって不思議な妙てこなものである。きのうと今日と三時間ほどねたばっかりで私は十六になり今までより以上に改良もし進歩もしなくっちゃあならないかと思うと急に私の肩が重くなった様に思われる。口だけでない覚悟をしなければならない私は意味のあるよろこびと微笑とをもって居る幸福だ! 私は自分の心のそこでささやく。

 一月二日(金曜)晴 寒
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〔摘要〕古橋氏、芝祖母君[#西村千賀子、母方の祖母]、来訪
    「リヤ王」、「埋もれた青春」、「伯爵令嬢」
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 らちもない只嬉しい気持で一日を送った。「リヤ王」を読む。「リヤ王」やその忠臣孝子の間には日本式な孔子の教のつたわってでも居そうな純な感じの好い感情がみなぎって居る日本の史劇の様な――こんな事も思われる。
「埋もれた青春」、その一つ一つに特別な感じと思いをうける、私にはそんなにはなされないほどのものではないけれ共一番始めにある埋れた春の幼い二人の子供の気持には落椿のはかなさといぬはりこの色の様に平凡なものでありながらはなれがたいなつかしみをうけた。「伯爵令嬢」まだ世の中をそんなに知らない私に四方を見廻させる力をもって居る。

 一月三日(土曜)晴 暖、風
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〔摘要〕小田切、松岡、徳岡文蔵、久米正雄、古橋氏来訪
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 久方振りに来た人達は女のいそがしいのも迷惑なのも忘れて又そんな事なんか考えもしないでさわぎ散らして居た。文蔵が帰ると間もなく文科の久米さんが来る、夜は古橋さん、トランプをしたあと新らしい女について又今の文学等について一時半まで話し合った。芸術と云う小さなかこいの中ほか見ないほど真面目と云うよりも、夢中になって久米さんは芸術を愛して居る人だ、相当に考えのある人と言う事は間違いない、今夜は私は大変に考えなければならなかった。文学は純文学として価値のあるものがいいかそれとも多方面から批難のないものがいいのか、大よそは分って居るが考えなければならない。

 一月四日(日曜)晴 暖
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〔摘要〕三越行 松野夫婦来訪
    「青い鳥」を読む、細井氏令嬢の悲報をうける、女鴨の死
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 眼覚めるとすぐ私はめすの鴨の死んだのを知った。一声もなかずに只白い眼を時にあけて遠くに歩く自分の夫を見ながら死んで行った鴨の運命に云いがたい感じを私はうけた。午後三越に行った、緋《ひ》の裾を絹足袋のつま先にさばいて人群をすりぬける事は真に快い物であった。帰ると細井さんのお娘さんがなくなったと云う知らせをうけた、阿母さんが死んで年の順に二人までまだ処女で居る女達の死んだと云う事には伝説のうんだ現実と云う様な事が思われた。松野の夫は消極的な運命のなすがままに自分の一生をまかせて居る様な男だった。「青い鳥」はまだ上編だけれ共口に云われない神秘が心の中に入って行く。

 一月五日(月曜)晴 暖
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〔摘要〕銀座行、『美術と文学』、『三田文学』、七面鳥を買う
    古橋氏来訪、宍倉母親娘
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 道男、本田道ちゃん[#本田道之、父精一郎の従弟]と行く。何となし絶えない私のあこがれのただよって居るこの町を男の様にシュッシュッと歩きながらこの町にふさわしい女にたった一人でも会いたいと思って居た。帰りに電車にのる一寸前、真綿に包んでしまって置きたいほどの女房に会った。うす青のコートにこくつけた白粉顔の頬ははにかんだ様に赤くなって居た。大形の丸髷の赤手がらは口にも云えず思い出してさえ身ぶるいが出るほどだった。赤と黒と並んで二本緒のすがったコロップの下駄をはいて小きざみに内輪にせいて歩いて居た。今でも私の目の前にはあの小鳥の様な新妻の様子がうかんで来る。

 一月六日(火曜)晴 暖
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〔摘要〕大瀧氏[#大瀧潤家、叔母(父の妹)鷹子の夫]へ御年始かたがた午後から遊びに行く
〔発信〕成井先生 岡田信一郎 福島祖母君[#中條運、父方の祖母]
〔受信〕曾我ふみ子
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 すきだらけな気持で行ってすきだらけでかえって来た。
 何となくうすあったかい胞で私はさしぐむ様な気持になって居た。一寸のものにふれてもすぐ涙がこぼれそうな私の心を自分でかわいらしく思った。まだ世間知らずの娘達の様に自分の年の呼び好いのにほほ笑みながらくり返した。
 小学校の時の事なんかがたまらなく思い出された。
 それから生の事も――そうして私は喜びと悲しみの交ったある感情に純に涙ぐんで居た。ふくふくの枕に頬をおっつけて私はポロポロ涙をこぼして居た。私はまだ若いと云うのを嬉しく思う。

 一月七日(水曜)晴
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〔摘要〕「夜」(短詞)、小さな論説。「小鳥の如き我は」(散文詩)を書く。「青い鳥」、「誘惑」を読む。
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「夜」――とにかく私のものとしてはかなり重く出来て居ると信じるけれ共悪い批評をうけてしかめっつらをするほどのものではない。
 芸術の尊さについて書いたもので私の初めての試みとしては少しは見られるものだとの批評があった。
「小鳥の如き我は」――モハメットの心を一寸はうけて居るんだけれ共「夜」に似た心持でもって書いたものだ。
「青い鳥」、その空想の生活に密接にふれて居ると云う事や又いかにも考えさせられる科白《せりふ》なり景色なりが多いのに驚く。くり返して読む必要がある、「誘惑」、モウパッサッン特有の婦人を描いて居る。

 一月八日(木曜)晴 寒
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〔摘要〕学校始業式 浅草へ行く
    「サアニン」を少し読む
    (伝説の生んだ現実)を云う題だけを思う、
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 何となくさわがしいそのくせすきだらけな本郷のかたい道を私はうつむき勝に歩いた。下らない事ながらこの日初めてあったかるい情なさは私の笑う声をひくくしたりいつもより深いあわれ味の心をおこさせたりした。午後から浅草に行く、茶絵雙紙の心持はいつ行ってものぞく事は出来ない。池のあめんぼうの泳ぐのを雨かと驚いた時のほんのちょっぴりの時間は私にとって詩になりそうなものであった。給仕に出た女もかなり私の気に行[#「行」に「(ママ)」の注記]った。三味線の音をあこがれる様な気にさえなって居た。伝説の生んだ現実と云うのは細井さんの家庭から思いついた事だ。美しいものが出来ないとも限らない。

 一月九日(金曜)晴 寒
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〔摘要〕学校出席、お雪ばばあ[#中條家の女中]が来る。
    途中にて古橋さんに会う。
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 学校に行くと何故こんなかと思うほど平凡にあんけらかんとして日を送ってしまう。けれ共今日はそれ以外に私の心に大変に感じさせられた事があった、けれ共そんな事はなんでもないと思わなければならない。そんな事におしつぶされるより以上の勇気を熱心をもたなければならない。一日中そいでも私は青いかおをして居た。「錦木」も「千世子」も思っては居てもいまだに手をつけて居ない。来週からでもやらなければならないと思う。やり出せば気を入れてするがするまでを出しぶるのは私の何にでもつく癖だ。「錦木」はもっと短かくまとまって色の濃い優しげなものでなければいけない。何とはなしとりとめのない想が私の頭の中に一ぱいになってかえって苦しいほどだ。

 一月十日(土曜)晴 寒
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〔摘要〕学校出席
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 十二時が打つと学校から帰れるのが私達にはたまらなくうれしい事だ。何か私の胸の中にうごめいて居るもののある様にこみあげる笑いが私の頬に一人手にさし込んで来る、思って居る事をずんずんはこんで行かなければならない、三学期は短かいから学校のあるうちだけはがまんしようかとも思う。一日中の予定行事のうちに何にも出来やしない。
 少しやけになるほどはらが立った。しかたがないさ。まあこんな事を思って眼をつぶりながら私は毎日乾いた事に自分の手のあれるのを知って居るばかりだ。ある事はしなければなるまい。
「木枯の走り廻れば骸骨の仮面の恐れ我をすき見す」

 一月十一日(日曜)晴 寒
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〔摘要〕弟達有楽座、御両親様本郷座、古橋氏来訪
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 冬枯の黄なる日ざしに男の猫は
     丸いねつゝ夢も見であり
 紙風船をつきもてあれば丸き音に
       一寸法師とび出すかな
 友も来で時の長きをかこつ我は
   枯れはてし草見まもりてあり
 底のなき筒にてたゝみ望めやれば
   人の世は今 新たなるこゝろ

 一月十二日(月曜)晴
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〔摘要〕学校出席 お母様上杉家
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 今の女は男の御機嫌をとるために行きたくもないところへ行ったり、見たくもないものを見たりは必[#「必」に「(ママ)」の注記]してしないもんだと世の中のすべてのものに云ってやりたい。私はそれほど意くじなしじゃあない。きらわれてもどなられても自分の感情をまげて男の云う事をきいて御きげんなんかとってやるもんか。馬鹿にしてる。「怒るんなら怒りなさいよ」私は椅子にのっかって足をふりながら云った。あんまり下らない様で涙がこぼれた。
 私は今の気持を何かにまとめて見る。私一人の気持じゃああるまいと思う。うつむいて自分の影を見ながら枯れた芝生を歩き廻る事はほんとうに気持よく思われた。

 一月十三日(火曜)晴 暖
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〔摘要〕学校欠席、本田道っちゃん 英男国技館行、
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 頭の云いがたいほど重いのと気がむしゃむしゃするのとでわけもなくむずかしい顔をして居た。男鴨の妙にやせて居るのがことさらに目立った。片すみにかがむ死の影を書く例の通り終りの句が気に入らなく力のたりないものになってしまった。
 エジプトの歴史に関した事を戯曲なり何なりにしたら面白かろうと思った。思う事ばっかりがあって手の方が中々動いて呉れない。原稿紙の書きにくいのなんかもいく分かそのかたむきがあるのかもしれない。体が悪いからかもしれない。でもまあ二日三日立てばなおるだろうからこんな事も思って居る。

 一月十四日(水曜)曇天 暖
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〔摘要〕学校欠席
    午後大変嵐になる。
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 そこいら中の山が爆発したり地震があったりするんで私達の心は何となく落ちつかない不安が絶えずおそって居る。
 風が吹いて雨が降って雷さえなるなまあったかいうす暗い部屋の中でこんな日でもそとで働いて居る人達の事を思って居た。
 私がこんな気分が悪いのなんのと
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