こしょうを云いながらぐずぐずして居るのが相すまなく思われた。
「何も考えない事はありませんワ」降る雨の中にこんな事もつぶやくほど私はふるえる様な心をもって居た。
「冬の日を嵐の吹けば事更にらちなき事も思ひしのばれつゝ」
一月十五日(木曜)晴 暖
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〔摘要〕学校出席、母様御外出
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青い顔をしてうつむき勝ちに学校に行く。昨日の天気に似っつきもなくしらじらしい青空の様子がすれた男の目の様に云いがたくにくらしく見えた。心のそこにすきがある。悲しさや涙をこぼしたいのをこらえて上《うわ》べで笑って居なければならないのを思えば私はひと里[#「里」に「(ママ)」の注記]でに目をつぶりたくなる。ひやっこい石の上につっぷして――私は或る芝居の舞台面の中に自分を加えて考えるほどセンチメンタルな感情になって居る。たった一人ぼっちはなれた心持で本を抱いて枯れた芝生を下を見て歩くとわけもないじめじめした気持が地のそこから湧き上って来る。
一月十六日(金曜)晴 稍々《やや》暖
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〔摘要〕学校出席、(当番)
古橋氏来訪
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この頃はどうしたんだか感情に変化がありすぎて困る。
もう忘れてもいい感情がたまって居て新らしい事も何も出来ない。この月はしかたがない。こんな事もフイと思って見るけれ共何となくして居る事が足りない様に思われてしかたがない。
心のそこのそこからむくむくと湧き上って来るあせる心を私はおししずめて行かなければいけない。この頃少し又頭が悪くなりかかって居る。気の遠くなるほどの強いきれいな刺撃[#「撃」に「(ママ)」の注記]をうけたい気持になって居る。どっかすきがあるらしい――この頃の私の気持である。
一月十七日(土曜)晴 寒
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〔摘要〕学校出席、例の――
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或る一事によってだんだんかわる人間の気持と云うものは中々微妙に作用するものと見える。今日などはことにそう云う事を思った。
人間の心理状態なんかはほんとうに不思議なものだ。
一度の打撃をうけてもっ[#「っ」に「(ママ)」の注記]どりうった気持にもなればいくどもいくどもうちこまれても平気な気持がある。
「死ぬ」と云う事がたまらなく恐ろしい又たまらなくきれいにこの頃は思われる。私の年頃私の境遇は死と云うものを或る一種なドラマティックなものとして見る時代になって居る。
一月十八日(日曜)曇雨 暖
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〔摘要〕父上晩餐によばれる
小針が来る
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何となくもの足りない一日だった。何かしら空[#「空」に「(ママ)」の注記]まちにまたれた。
じいっとしずかに座って枯れた木の梢を見ながら私のまわりに近よったり近づかなくなったりした人の顔や声やくせなんかを思い出した。一寸した出来心でなる女同志の友達なんてそんなに意味深くなりにくいものだとも思われた。
しとしととふり出した雨の音はなつかしかったけれ共じきにはれて星が美しくなって居た。道が悪くなくていいかもしれないけど今の気持にはあんまりそぐわない。
気まぐれの小雨の音の我耳をなで行きしあとのもの足らぬ心地。
一月十九日(月曜)晴 暖
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〔摘要〕学校出席
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しゞまなる夜に小まりのはれ/″\と
笑みつゝあるは故なくもよし
文箱の青貝光り我指の
白さはまして夜は更け行く
一月二十日(火曜)曇天 暖
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〔摘要〕学校出席
有楽座見物(芸術座「海の夫人」、「熊」
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芸術座の「海の夫人」と「熊」とを見に行く。麻の葉の銘仙に紋ハ二重の羽織を着、袴をはいて行った。「海の夫人」について批評がましい事は云えないけれ共、とにかく内容をうれしいほどこなしては居ない。スマ子さんは今までに一番自分にあった性格らしいかなり印象のつよい事を見せてくれたけれ共まわりの人々にはも一寸と思う事が多かった。バックもあんまりよくはなかった。「熊」は随分皮肉なそうして何かこもってそうな喜劇だった。たった二人位であれだけすきな□□[#「□□」に「(二字不明)」の注記]やってのけたのはとにかく御手ぎわに思われた。スマ子さんの「熊」!「熊」!「熊」! 久雄さんのいった通りの気持をうけた。東洋軒の給仕女の白粉が白すぎた。
一月二十一日(水曜)曇 暖
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〔摘要〕学校出席、新海さん達六人来訪晩餐
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美術家と云う名によってかなりの期待をして居た私はかなりがっかりした。きっと私のすきな私の夢中になってきく様な話をして呉れる事だろうと思うて居たけれ共そのわりでもなかった。
今夜来た料理人は江戸ッ子の神経的な男だった。
この二三日は頭が重くて片っ方にかたむきそうに思われる。この一学期は何にも出来そうにない。
しかたがないだろうから――かわいたひっからびた学校の事ばっかりで日を送らなければなるまい。
すきのある心抱きて冬の空 仰げば吐息小ごへに咲く
一月二十二日(木曜)晴 寒
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〔摘要〕学校出席
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「何となくすきがあるんです。私は必[#「必」に「(ママ)」の注記]して不幸ではありません。両親の羽交いの下から一寸首を出して世の中の選ばれて私の前にならんで来るものばかりを見て居るんですもの、――
でも何だかすきがありますわ。
はてもない野を大声に歌いながらあるきまわって青い空の下の木の切株に腰をかけて考えて居たらこんな気持はなおるかもしれません。けど斯うした幸福に居て味う何とも云われないかるいそうして美くしい悲しみは長い年の立ったあとには又たまらなくなつかしい思い出になるんでしょうねえ」こんな手紙を誰かに書きたかった。
一月二十三日(金曜)晴 寒
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〔摘要〕学校出席
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寒いわりに気持のいい日だった、私は着物の衿を私のすきな様にゆったりと合わせながらすばしっこくあたりのものを見廻して居た。そうして気もかるかった。
初秋の様にかるい風が私の髪を通して耳たぼをくすぐったり自分でも白いと知って居るえりをなでたりするのはほんとうにうれしい若々しい気がして居た。
一月二十四日(土曜)晴 寒
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〔摘要〕学校出席、古橋氏来訪、数学試験
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一月二十五日(日曜)曇 暖
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〔摘要〕女鴨が来る、渡辺家婚礼、こすき先生、久野先生来訪
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女鴨は始めてここに来ておどろいたおちつかない様子でまわりのにわとりを見て居た。女鴨のお嫁入りと渡辺さんの御嫁入りと私はとてつもなくおどけた連想を起させられた。こすき先生ははっきり言葉のわからない言葉で見て[#「て」に「(ママ)」の注記]は意志の明かでない人の様に思われた。
一種の暗いかげのある音楽家として久野先生は目立つ方である。
一月二十六日(月曜)晴 暖
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〔摘要〕国語試験、母上会出席、衿をぬい始む
[#ここで字下げ終わり]
夜の日に影なき道をたどり行けば人を呼びたき心地こそすれ
美くしきまどはしよ汝我心のいまいる奥にひそみ居るらん
まどはしは仮面つけて我心の精をくみて育ち行くなり
ゆたかげに波うつ海の青さのみ恋しき心山にすみ居て
くゆらしし香の煙に我心のかこまれて行く紫のくに
夜の姫は衣のひだに白き足秘めし音なく我うでに来る
疑よ! なつかしく汝思へどもあまりしかしき我はかなしや
はれてさへ尚灰色の影をもつ冬の空のみ只かなしかり
一月二十七日(火曜)晴 暖
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〔摘要〕学校出席
[#ここで字下げ終わり]
私の心はいつでもはればれと澄んで希望に満ちて居る。
けれ共私はしなければならない事が沢山になって居る。
そうしてそれをはきはきして居なければ居る事は出来ない。
この頃は学校が面白い。
それが何よりもうれしく思われる。
甘ったるいかるいくすぐる様な悲しみが悪《いた》ずらの様に心の中にわき上って来る。うす暗《やみ》の夕方そうっと誰かの名をよんで見たい様な気もする事もある。
一月二十八日(水曜)晴 寒
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〔摘要〕学校出席
[#ここで字下げ終わり]
夏になったらば――夏と云うものに私は大変今日はあこがれが多い。
夏になったら庭の正面にけしと小さな可愛い花をまきましょう。まどわしのこもって居る様なけしの花を前にしてじっと、ふられた肌の様な夏の香りを嗅ぐ事はどんなにうれしい事だろう。冬の日ざしを見て居ればほんとうに夏がなつかしい。夏――、お前は何と云う力のある輝きのあるひびきをもって居るのかい若い私にふさわしい思いを御前はもって居る、――
冬の日の縞目つくりててりてあれば影もしまめの我心かな
一月二十九日(木曜)晴 暖
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〔摘要〕学校出席、古橋氏来訪
[#ここで字下げ終わり]
ストーブに赤きほのほのチラ/\と燃えつゝあれば誘はるゝ心
先丸き鉛筆をもてものかけば
うたうたひたき心地こそすれ
黄なるきれはぬいてあれば輝ける
小針もつ指この上なくもよし
縫ひてあればつね事なれど我指の
爪小さきも今更の如
一月三十日(金曜)晴 寒
[#ここから20字下げ、折り返して24字下げ]
〔摘要〕学校出席、作文「鏡」
[#ここで字下げ終わり]
一月三十一日(土曜)晴 寒
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〔摘要〕学校出席
[#ここで字下げ終わり]
〔雑録〕
一月
一月十二日、クラシックは或る程度まで中々なつかしいはなしにくいものだと思う。
“「ねつかれない時に見る光りものと耳なりの響は馬鹿にして居ながらひょうげた可愛らしいものだ」
人間の運命、又時と云う事がワイルドの一代記を見て思わされた悲しかった。奇麗な顔と奇麗な言葉と感じとを思ったワイルドもさみしいとこに死ななければならない運命をもって居た。はなやかであっただけ美くしかっただけそこに大口をあいてパックとやった死がよけいにおそろしい見にくいそうして悲しいものに思われた。どんづまりには何にでも死がある。
二十日に「海の夫人」と「熊」を見て小さい批評を書く。
○私の試みの時が来た。私はつとめてこの間にいろいろな気持やいろいろそのほかの事を研究しなければならない。
悲しみ、淋しさと云うものの実の意味を賞観するほどの気持にならなければいけない。特殊の事柄は私の心地をどれ位変化させるかわからない。
私は私自分に感じるほどワイルドに魅せられて居る。あのペルシカショー□□[#「□□」に「(二字不明)」の注記]の様な文は私にどうする事も出来ない魅力をもって居る。
〔金銭支出簿〕
[#ここから縦2段表組み]
月日 摘要 金高
一、四 三越にてリボン 一円八十銭
一、四 三越にて半衿 五十銭
一、五 『美術と文学』 一円
一、五 七面鳥 七十銭
一、五 『三田文学』 三十銭
一、五 ノート 十四銭
一、十二 「反省録」 十銭
一、十三 指ぬき 一銭
一、十六 スペンセリアン
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