こで字下げ終わり]

 四月二十六日(日曜)晴
 植物園へ行く。
 沢山の美術家の卵に会う。
 木の色と草が私に忘れ難い印象をあたえた。
 黄金色の落葉の群の小路、若草の広野。私は都をはなれた気持がした。
 鉄窓の中で人間の恋を真似てる猿を大きな万物の霊長と自任して居る人間達が愚かしい笑を持って見て居た。

 四月二十七日(月曜)曇
[#ここから20字下げ、折り返して24字下げ]
〔摘要〕学校欠席
[#ここで字下げ終わり]
「千世子」の第二まで書く。

 四月二十八日(火曜)
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〔摘要〕出席
[#ここで字下げ終わり]
 お敬ちゃんが来る。
 体のせいで頭が重い。何もしないでけしの絵なんかを書く。あしたっから一日一緒に居ましょうなどと云ったけれ共行われない事だと云う事を私は知って居る。
『文章世界』が来る。

 四月二十九日(水曜)晴
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〔摘要〕出席
[#ここで字下げ終わり]
 日誌当番。
 訳物のつづきをしなければならない。今二つに心がわかれて居る。どっちかにまとめなければならない。
『日本外史』『真書太閤記』が来る。訳物はどうしたって十月までには原稿紙に書ける様にしなければならない。

 四月三十日(木曜)晴
 御母様が銀座へいらっしゃった。
 私の先《せん》からほしいと思って居たポーの短篇集と『理想』を買って下さった。
 思いがけなかったのでふだんより倍も倍もうれしかった。

 五月一日(金曜)晴嵐
 体格試験。
 身丈は相変らずひくい。
 どうせ頭でっかちに育ったんだからと思う。
 夜加藤誠二の話が出る。
 妹だと云って紹介した女を弟達は「夫婦かと思った」なんて云って笑った。
 そんな事のわかる年になったと云う事が頼もしい裏面に痛ましい陰をもって居る。私は弟のどうぞあの、家鴨《あひる》の様な声を出して呉れない事をつくづくもねがう。

 五月三日(日曜)晴
 夜熱が八度出たので細井氏へ行く。
 喉が悪いのだと云う。家へ帰って寝て居た。
 下らない事で有りながら大変気にして涙なんか出た。
「時節柄」と云う事が私の心をなやます原因になって居る。
 下らない一言でも聞く人の心が動いて居るとやたらに感じるものだ。
 或る時は百の言葉が何の意味もなさない事がある。しかし時によると一言で人間を殺す事が出来るものだ。

 五月四日(月曜)
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〔摘要〕欠席
[#ここで字下げ終わり]
「千世子」はどうしても書きそびれてしまった。
 思う様に出来ない。
 だからまるで思い切って別なものにしようと思う。

 五月五日(火曜)
[#ここから20字下げ、折り返して24字下げ]
〔摘要〕欠席
[#ここで字下げ終わり]
 今日大変黒い蝶の舞うのを見た。
 青い空の下を黒蝶が舞うのは貴族の令夫人の様な姿だ。
 紋白蝶なんかは黒蝶よりもあさっぽい気がする。
 それは色が黒の方はすべての色をふくんだ重みのある色だからだ。
 だから黒色に被われる夜は世の中のあらゆるものが黒の中で育つのだ。

 五月六日(水曜)
[#ここから20字下げ、折り返して24字下げ]
〔摘要〕欠席

[#ここで字下げ終わり]

 五月七日(木曜)
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〔摘要〕欠席
[#ここで字下げ終わり]

 五月八日(金曜)
[#ここから20字下げ、折り返して24字下げ]
〔摘要〕欠席
[#ここで字下げ終わり]
 坂本さんから返事をよこした。桃色の私の大きらいなきざな形をしたのを呉れた。趣味の高下が表れていやだ。近眼で目鏡をかける様になったと云ってある。
 その様子を想像するといかにも落つきのわるい前のめりの形だ。女で目鏡をかけて美人に見えるのは純日本婦人の中では十人の中に一人とは有るものでない。

 五月九日(土曜)
[#ここから20字下げ、折り返して24字下げ]
〔摘要〕欠席
[#ここで字下げ終わり]
 Mが来る。
 花を私に持って来ようと思ったけれ共きまりが悪かったから止めたと云うた。
 きまりがわるかったから止めた
           斯う云ったんだ。

 五月十日(日曜)
[#ここから20字下げ、折り返して24字下げ]
〔摘要〕欠席
[#ここで字下げ終わり]

 五月十一日(月曜)
[#ここから20字下げ、折り返して24字下げ]
〔摘要〕欠席
[#ここで字下げ終わり]

 五月十二日(火曜)
[#ここから20字下げ、折り返して24字下げ]
〔摘要〕欠席
[#ここで字下げ終わり]
「蛋白石」の稿を起す。
 書き出すとすぐ紙がない。
 買う事も思う様には出来ないのでかんしゃくばかりやたらに起る。

 夜は雨が始はひどく降り、あとからは泣く様に降った。

 今日始めて勉強部屋に来て見た。

 五月十三日(水曜)晴
[#ここから20字下げ、折り返して24字下げ]
〔摘要〕欠席
[#ここで字下げ終わり]
 蕗が大変育った。うす黄のひよっ子も大きくなった。
 部屋の前の紅葉は紅の若葉を絹糸の刺繍の様な色に輝ししめった黒土の上に落椿はなさけない形をして置かれた。軒から松の心にかけたクモの糸が眼に光って私はうす暗い中にだまって座って長い間居た。

 五月十五日(金曜)雨
[#ここから20字下げ、折り返して24字下げ]
〔摘要〕欠席
[#ここで字下げ終わり]
 大変気持がよくなった。
 もうすっかりなおったと云っても好い。

 六月八日(月曜)
 漢文先生

 六月十日(水曜)
 漢文先生

 六月十五日(月曜)
 漢文先生

 六月十七日(水曜)
 漢文先生

 六月十八日(木曜)
 小此木先生の処へ行く。[#ここから横組み]“The rainy day”[#ここで横組み終わり]

 白い小さい縫のセットの上に二三十ころっとしたサクランボーはほんとうにうれしかった。

 六月十九日(金曜)
[#ここから横組み]“The day is cold and dark and[#ここで横組み終わり]
 小雨のうす暗く降る空を見ながら誦すと一人手に思いが深くなる。
[#ここから横組み]“my thoughts still cring to the past.”[#ここで横組み終わり]
○幸、不幸、それははかりしれないものが司って居る。今の私は忘られ行く過去を憶う人とはなると思えない。

 六月二十二日(月曜)
[#ここから20字下げ、折り返して24字下げ]
〔摘要〕欠席
[#ここで字下げ終わり]
 見えない小雨がして居る。
 大工のかんなやかなづちの音もいいかげんにうるおうて響く。
 内に居る日に見えない小雨はなつかしいものだ。

 六月二十三日(火曜)晴
○五月雨時にまれな天気である。頭が軽い。
○大瀧さんに葉書を書く。
○紫陽花《あじさい》の群が重く咲き満ちた。
 ○白鳩の若き翼に夏の日の
    黄金の色に舞ひ舞ひてあり
 ○若楓の青きを恋ひてしたひよれば
    黒き毛虫は我肩を這ふ
 ○梨の葉の云ふ甲斐もなくしぼみ行きて
    来ん日はなどしさうも愚や

 七月六日(月曜)
 不義の生活は死に等し
 格言として書かれて居、世間の人達は格言と見、云ったその人自身も名言だと思ったんだろう。
 けれ共私にはこの言葉に対する不平がある。
 死と云うものは不義の生活に比べられ、等しいと思われるほど注意のあさいものではない。
 最も高尚な高潔な生活の極点が死である事は「すべての欲望の極の欲望は死である」と云ったトルストイの言葉でもわかるのだ。

 七月八日(水曜)
 大変朝早くこの頃は学校に行く。
 重いさびた色の煉瓦の建物の下の石に腰をかけてトルストイの或る作を読む。うす明るいもやがかこんで居る。まだつゆのある短かい草の根元や大きな礎の石の間にささやかな虫のつぶやきの声がする。
 嬉しい寂寞《じゃくまく》の裡に私の心は清んだのである。

 夜も美くしい声の虫が一匹、草の間でないて居る。
 さしぐまれる様な気持になった。

 七月十七日(金曜)
 細井さんの小わきで墓穴をほって居る男の群達を見た。美くしかった娘の腕も健に育ちかけた青年の頭蓋も出されるんだろう。がいこつの目の玉のあとから飛び出すふしぎな霊がその男達のぼろぼろの裾にまつわりつく。
 熱が出て寒気がした。墓穴の連想が私を苦しめる。

 七月十八日(土曜)
 又先に病ったと同じ様な調子に私の体の工合が悪くなって来た。
 熱が八度二分。
 細井さんに行く。先ず熱が癖になって出るんだろうと云う事だった。薬をもらって帰る。

 七月二十日(月曜)
 今日で一学期もお終になる。
 どんづまりの日まで出ていざとなって顔を見せない私を例の人は変に思うだろう。
 皆がうの目たかの目で居る点も見ないで平気で居る私をさぞ暢気者とかなまけ者とも思うだろう。
 私の点は例の人達がつけきれないだけ沢山もって居るんだ。
 熱はまだかなりある。

 七月二十二日(水曜)
 今朝はきのう熱がなかったので六時頃床を出る。
 二三日ほっぽり出して置いた間に部屋の本箱はすっかりごみだらけになって居るし何だか持主が居ないと斯うもなるのかと思われるほど汚なかった。
 すっかり掃除をして久し振で二十枚ほど書く。
 平気で居たら午後に大変熱が上って居た。
 又床にもどる。
 少々ぶり返しの気味だ。

 八月八日(土曜)
 今月の四日に漸《ようや》く平熱になった。
 四十度五分の熱が二十八日に出て前後三四日ずつ四十度以上の熱が出て人事不省になったんだそうだ。
 水枕で先にふとんが濡れたので気にしてフトンフトンと早口に云って居たと云った。

 八月九日(日曜)
 読む事と書く事を禁じられた。
 それを私は少しの辛棒だと思って苦しいながら堪えて居る。
 丈夫になりたいばっかりなんだ。
 達者な時には死ぬ事なんか何でもない様に云って居るけれど、いざとなると驚くほど「生」と云うものが尊く思われる。その大きな力にひきずられて私はがまんして居るのだ。

 八月十日(月曜)
 病気をして物を考える。
 又さとりを開くとか云うのはたいてい少しはひまのある病気――って云うのも可笑しいけれどもほんとうに少しはひまのある病気でなければ出来ない事だと思う。
 私みたいに汗をだくだくながしては寒気がして熱が出る。それをくり返しくり返しして居る様では自分が生きてるか死んでるかさえたしかめられないほどだ。考えるなんて云う事はまるで頭に無い。

 八月十一日(火曜)
 土が白くポカポカ浮いて居る。
 雨が降るといい。
 斯うやって家に病上りで居ると一日毎に目の前に変った景色を見たい。
 草木が死んだ様な色をして居る。
 村々では雨乞をして居るんだろう。
 水の争を田の傍でして居るんだろう。
 東京の中央では水に使方を少し丁寧にするだけで夕方はザアザア湯があびられる。

 八月十二日(水曜)
 気をつけて水をやり虫を取って居るベゴニアの葉を皆鶏が食べて仕舞った。
 鶏はさぞ美味しかったろう。
 人間にもそんな事をするものが居る。

 私のあの大切なペン軸が見つからなくなってしまった。鼻のうすっぺらな髪をデコデコ結ったすれ切った女がたまらなく憎い。

 八月十四日(金曜)
 夜うすき先生が来て「汗も」をつぶしてもらう。
 みっともなくブツブツになった額にアルコールのしみこんだ気持はたまらなくよかったけれどいやに瓦斯の光線で輝くメスや変にトンがったものを見たら体中が一度につめたくなる様だった。
 先の頃始終指なんかをはらしてた頃は左《そう》まででなかったけれど今日は大変こわかった。
 自分に無関係な時それを見て居るといろいろな興味が湧くものだけれども――。

 八月十七日(月曜)
 お敬ちゃんが来る。朝早くから夕方まで居て行く。
 坂本さんへ手紙を書く。
 もう少し考えた手紙を書いてわかって呉れる友達が慾しい様だ。

 八月十八日(火曜)

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