日記
一九一三年(大正二年)
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)紫陽花《あじさい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)朝のかがやきはい[#「い」に「(ママ)」の注記]おって居る。
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 七月二十一日 晴
 木の葉のしげみや花ずいの奥にまだ夜の香りがうせない頃に目が覚めた。外に出る。麻裏のシットリとした落つきも、むれた足にはなつかしい。
 この頃めっきり広がった苔にはビロードのやわらかみと快い弾力が有ってみどりの細い間を今朝働き出してまだ間のない茶色の小虫が這いまわって居るのも、白いなよなよとした花の一つ二つ咲いて居るのまで、はっきりした頭と、うるみのない輝いた眼とで私は知ることが出来た。人間を最も、力の満ちた、快活な時にする朝を私は有難い物に思われた。いつもより沢山……紅葉、紫陽花《あじさい》、孔雀草、八つ手、それぞれ特有な美くしさと貴さで空と土との間を色どって居る。どんなささやかなもの、そんなまずしげなものにでも朝のかがやきはい[#「い」に「(ママ)」の注記]おって居る。
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「力強い、勇気の有る、若々しい朝は、立派な洗面器で顔を洗って、おしまいして坐布団の上にチョロンと坐るよりは小川の流れでかおを洗いグルグルまきにして紺の着物に赤いたすきで田草をとり草を刈り黒い土を耕す方がつり合って居て立派にちがいない」
[#ここで字下げ終わり]
 こんな事を考えながら小一時間もうき立った、この上もないうれしい気持でおどる様な足つきでブラついた。私の目にうつるすべてのもののそばにある木々の葉ずれも、空にある雲の走るのもみんなが私と同じたのしい歌をうたい、おどった足つきで居て、私が手をだしたら一緒におどって呉れはしまいかと思われるほど、私の心はたのしかった。家に入ると皆おきて居た。にこやかなおだやかな朝食をすませた。小さい弟[#中條《ちゅうじょう》英男、中條家三男]がすずめがおや鳥がひなにこうしてたべさせるんだと云って私に目をつぶらせて小さい細い白い箸の先にしこたまからしをぬりつけて口中にぬってくれた。私は、どんなに見っともないかっこうだろうと思いながらもくしゃみをし涙をながさないわけにはいかなかった。けれどもそれさえも私はこの上なくうれしかったのでくしゃみをして涙をながす間におなかをおさえて男のような大きな声で笑いつづけた。間もなく、しずかなゆるやかな光線の流れ込む部屋に入って鉛筆をとった。二時間ばかり算術をした。本をよんだ。世間知らずな若い人達の詩と文章とを……、
 これ等の本をよむ間、私は切りこの可愛いガラスのうつわの中から、銀紙につつまれたチョコレートをかみながらよんで居た。
 紙の間にもチョコレートの香の中にもうれしさはとけこんで居た。
 うれしさにあとおしをされて
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「ついばんであげよか小麦さん」
白いひよこは云いました、
小麦の芽生えはおどろいて
細いその葉をふるわせて
やさしい声で云いました、
「もちっとまって下さいな
わたしの身丈のもう少し
大人に近くなるまでは」
菫の香りのとけ込んだ
春の空気はフンワリと
二人のまわりをつつみます

紫紺にかがやくせなもった
つばめが海を越えて来た
小さい可愛い背《せ》の上に
夏の男神を乗せて来た
茎は青白葉は柔く
小麦が大人になりました
「ついばんであげよか 小麦さん
貴方の身丈もちっとのびた」
小麦はさやさや葉をならし
可愛いこえで云いました
「白いひなさんかわゆい御方
私の持ってる青い穂の
みのらないのがわかりましょう、
もちっと待って下さいな」

「ついばんであげよか小麦さん」
小麦はうれしい声出して
「エエどうぞ たくさんあがって下さいな
すっかり大きくなりました」
小麦は体をなよなよと
地にまでねせて云いました、
白いひよっこは親鳥に
これも大きくなりました
[#ここで字下げ終わり]

 こんな下らないもんくを紙にかきつけて声高に勝手なうたの節をつけてうたって居た。
 新しいゴムマリの様の心地で……
 御ひるすぎ、私は出まどの前に坐って、楓のやわらかそうな芽生えを見ながらいろいろたのしい事を――私のこれからあとの……――思って居た。そしてコーヤッてじっとして居ると、どこからか小蜂がとんで来て、私を背にのせて人のまだ行ったことのない国につれて行って呉れはしまいかとなんか思われた。
 それから私はきのうのばん見た夢を母[#中條葭江]にはなそうと思って
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「お母さま、あのネェ、」
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と前おきして笑いながら「いも虫」の園につれて行かれた恐ろしかった話をしだした、中頃までした時、
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「出たらめの話と知ってきいて居るのもまた毛色の変った面白さが有るネ」
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と云ったんで大きな声でわらいながら、その話を中途でやめて運動場の砂をザクザクさせながらそのはなしのつづきを思って居た。
 夕方、めずらしくカナカナがないた。私も一緒にカナカナカナカナと云って口がこわばる頃、とっぴょうしもない声で笑って部屋にかけ込んだ、うれしかった……
 椿の木、桜、杉、そんな植え込みを通して青い瓦斯《ガス》の下を行ったり来たり、笑ったりするお娘さんの姿が見えた、ひるま見る時よりも美しかった、
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「となりのお嬢さんあなたはいくつ?」
かごの小鳥が声かけた
「わたしの年をあなたがきくの?
それじゃ、あなたとおない年
ですよ、まだ若いでしょう?」
となりの娘さんが云いました
「マア、それじゃあマアお嬢さん
貴方はやっと二つなの?
同い年ならその筈よ」
かごの小鳥はおどろいて
どんぐりまなこで云いました、
「私はネェ、小鳥さん、
特別仕度の子なもんで
こやって口もきけますの
おかしいワネェ、オホ……」
小鳥も一緒に「オホ……」
笑ったけれども「何となく様子が変だ」と鳥さんは
首をかしげてとまり木に
チョコンと止まって居りました、
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 私は自分が小鳥になったつもりでこんな出たらめをうたって足拍子をとって笑って……間もなくいつもにもなくはちきれるようなうれしさに
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「神様、どうぞ私の夜の床を御守り下さいませ」
[#ここで字下げ終わり]
 こんな事を小声に云って床に入った。
 この頃になくうれしい事ばっかりの一日、私は一寸しか、おしるしほかはたらかなかったけれども、今までにないうれしい一日で有った。こんな一日をうしろにおいてきぼりにするのがつらかった。

 七月二十二日 曇天
「何だか気の重い日らしい」目のさめた時に閃くようにそう思ったのがあたって一日中あくせくまるで、日向に石をつんでうめいて居る駄馬のように暮してしまった。
 随分下らない面白くない一日だった、
 日記をつけようと、ペンをにぎって居てさえもイライラするほどだった。昨日と正反対の心持で暮した今日一日が涙の出るほど可哀そうな様に思われた。
 新聞を大変気に入ったところがあったので切りぬいておいたら、紙くずと一緒されてしまった。
 たった一つの首人形をふみつぶされた。
「鴨」の原稿を破かれてしまった、小さい妹[#中條華、中條家三女。百合子が長女、次女は千鶴(生後四ヵ月で死亡)]に、……
 こんな事はみんな私の心持をいらいらさせたり、涙をこぼしたりさせたりした。
 気の狂った様に汗をながして躰を働かせてホット息を吐くと一緒に心の中にすきのあるような気持になって居た。
 おひる前は御ひるっからになったらたのしい事があろうかもしれないとこんな事を思って午後になった。だけどうれしい事もたのしい事もなかった。
「鴨」をかきなおして、里親の家から帰った子、とむしゃくしゃな心のまぎれに題もない短いものをみんなで三つ書いた。
 ペンの先にならべられるものの一つ一つの意味もきのうとはまるであべこべのものであった。
 夜は心をおちつけようとローソクをつけてだまってからかみをにらんで居た。けれどその焔のゆらめきに私の心も一緒になってゆれて居た。すきな本をひざの上にのせてそのかどをなでまわして、生きた霊のあるもののような気持で紙とかみのすれ合う声や香りを可愛がって居る内によほど気が落ついた。
 どんなにいらいらしてもどんなになさけなくってもする事だけはしたんだから、……こんなことを□[#「□」に「(一字不明)」の注記]うす明りの空を見ながら思った、きょう一日は神さまに試みられたんだろう、キット
 ねる時にこんな事を思った。

 七月二十三日 曇天 風、
 朝生れてから又夜八時間ほど死ぬまで今日は至って平穏に暮した。十時位まで数学と習字と絵を一寸書いて、ゆうべ話にきいた事をまとめて書いて見ようと思って書き出したけれども思うように行かなかったので図書館行ときめる、白い絽のようなつつっぽの着物に袴、頭は真中を二つにわけって後で二本あんだものをぶたさげな[#「な」に「(ママ)」の注記]に結って下駄をはいて行った、ノートを二サつとインクをもって…………
 今まで日比谷のには度々行ったけれ共上野にははじめてである。
 下足の地下室なのがすこしいやで婦人のエツラン室から二階の本をかりるところまでは馬鹿に遠くて特別室を通りぬけて行くので、私なんかでさえ一寸妙な気持がした。
 黒いジム服をきたお役人様? 即ち出納係りはまだわかい男のくせにいやに威ばって人のかおをいろいろと見て居る。
 御なかん中で
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「私のかおだって眼が二つほかついてませんよ」
[#ここで字下げ終わり]
って云ってやりたかった。
 売店はこれも又地下室でまるで牢屋みたいな所だ。そこに木のゴチャゴチャなテーブルの前に立って、くらい中でおすしをほおばるやら、パンをぱくつくやら、たばこをすうやら、まっくらな中に煙草のにおいとクチャクチャクチャとお行儀のわるい人のものをかむ音ばっかりがみちて居る、こんなところで有りながら人がうじゃうじゃ居るにはおどろいた。
 私は鉛筆を買いながら斯う思った、「出来ることなら、廊下の長さをもちっと倹約して売店の窓をもちっと大きくしてほしい」と。
 いかにもお役人風なところばかりなのが少しいやだったがとにかく二時間ばかり見てかえる。
 帰りには日がさしたので馬鹿にあつかった。一時間ほどノロクソとして居てから書き出す、大抵出来上った、題は「魔女」と云う。
 夜はつくづく「時」と云う事を考えた。
 私が七十まで生きるとしても五十五年ほかない、その間、二十五六までミッチリ勉強してもほんとに働くのは一寸ほかないんだからと思うとイライラするような過ぎて行く時のかことをおさえてとめて置きたいように思われる。
 ねしなに「火取虫」を書いた。「花月雙紙」の序文を習字のつもりで書いた。今日は何にも変った事がなかった。
 くりかえしてかんがえて見ると、朝おきる、御はんをたべる、算術、習字絵、一寸私のどうらくに手をつけて図書館に行く、かえる、又御はん、又書く、下らないきまりきった事をかんがえてぐちをこぼす、又書く。
 そしてねる、おまけにねてまで下らない夢を見る。
 私はそう思われる。私の一日はかたにはまるにも事をかいてよっぽど下らない下の下のかたにはまってるに違いないと、……
 こいだけ書いて又下らない夢を見に床に入った。

 七月二十四日 曇り
 今日の日記は「カーネーション」と名をつけて、ここよりも八十里ほど北の山国に住んで居る「トシチャン」と云う私より一つ年上のオムスメさんに送った。
「カーネーション」この名は別に深い意味が有るのでもなくただ私の花園に一番沢山咲いて居る花の名をとったばかりだけど、そのポッテリとしたはにかんだような花は可愛いので手紙の中に二輪押して入れた。
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「日が高くなってからノコノコ起きたんですの、随分見っともいい事ですけど、もうとっくに私の宵いっぱりの朝ねぼうは知っていらっしゃるから妙
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