、なろうともしなかった。甲が三つだけ彼を悪く云うと、乙は五つまで、丙は十までと、どんづまりまで悪いだらけにしなければ、気が済まないらしく見える。そして、今まで店内で起った種々の不祥事件――たとえば、ちょっとした金銭の行違いや、顧客《とくい》先の失敗とかいうこと――は皆、庸之助のせいにされた。何の罪もない彼を、寄ってたかって罵倒するのを、幾分か肯定し、援助するような表情をして黙って聞きすてて置く者などを見ると、浩は擲《なぐ》りつけたいほど、腹が立った。ひどいと思った。けれども、口で云うほど内心では庸之助に対して、好意も悪意も、さほど強くは感じていないことが次第に解って来た。
「あん畜生が、どうこうしやがった」
などと、平常は慎しまなければならない言葉も、或る程度までは思う存分ぶちまけられ、庸之助という主題に、関してだけは、下等な戯言《たわこと》も批評も、かなり黙許されているような店中の空気が、平坦な生活に倦怠している若い彼等を、十分興奮させているのが、浩には分り出した。すべてが興味中心で動いて行く。面白半分である。そして或る者は、幾分庸之助に同情を持ちながら、大勢に反した行為をするだけの勇気を持たないで済まないように思いながら、皆の中に混って心ならずも、嘲笑したり、罵ったりしているのも見られた。浩は庸之助に強い強い同情を燃やしながら、また一方には、仲間の者達にも、哀憐《あいれん》の勝った好意を持っていたのである。
六
庸之助が去って、三日になり四日になった。ああして行きはしたものの、会わないで別れたことでもあり、葉書ぐらい寄こすだろうと、心待ちに待っていた浩は、その望みもそろそろ断念しなければならなくなった。興奮し通していた心持が、次第に落着くに従って、彼は、ほんとうの衷心から涙の滲み出るような思い出や、考えに耽り始めた。
それは、ちょうどその月の決算にほど近い日であった。或る一人が不意に、庸之助の扱かっていた帳簿を、一応検べる必要を云い出した。庸之助のいた時分は、かなり彼を信用していたはずの者まで、今までそのことに不念だったのを、取り返しのならぬことをしたような表情を浮べて、昼の休みを潰《つぶ》して、数字、一字一字から、説明書まで検べて行った。何か面白い発見でもするように、大声で庸之助の書いた金額を代帳に引きくらべて読み上げるのを聞きながら浩は、妙な心持がした。辱かしめを受けているような、また安心と不安の入混った心持になっていた。
「庸さんには、絶対にそんな心配は無用だ!」
浩はそれだけで満足していたかった。けれども、それを許さない、自分自身の心の経験を持っていたのである。
限られた僅かばかりの金で、自分が望んで望んでいた本を買う。これと、これとを買いたいのに、持っている金では一銭足りないというとき――ほんとに持っている人から見れば、金銭という感じを起させられないほど僅かな一銭――、自分の心のうちには、実に言葉で表わせないほどの心持が起る。「文字」を尊重している彼は、著者がそれを完成するまでに注いだ心血を思うと、よほど法外だとでも思ったときのほか、価切《ねぎ》るということが出来なかった。古本屋――彼は新本を買うだけの余力を持たない。――に対しては、或る点からいえば馬鹿正直だともいえるけれども、彼の心は、或る人の本を見ると、真直ぐにそれを書いた人自身に対する尊敬となり同情となったのであった。で、彼は、そのどうしても手離さなければならない一冊の本を持って、一面理智の監視する前で、漠然とその足りない一銭の湧いて来ることや、主人がまけましょうと云うのを期待して見たりする。
たった一銭、どこかの家の、火鉢の引き出しにさえ転っていそうな一銭が足りないばかりに、こんなにも欲しいものを見捨てて行かなければならないのか?「下らないなあ、定まっていることを、なぜそうまごまごしているのか?」冷たい笑いが、自分自身のうちから発せられるのを感じながらも、彼は欲しいという心持を押えられない。
「本の万引をするつもりかい?」
浩は、思わず赤面して、不思議そうな顔をしている小僧にそれを返し、一冊だけを買って帰って来る。
そんなことは、余裕のある生活をしている人には、恐らくただ馬鹿な、意志の弱いこととしてほか思えないだろうということは、浩自身も知っている。けれどもしばしばこういう心の経験をしている彼は、ほんの出来心で、反物などの万引をする女の心持がよく解った。幸《さいわい》自分は、思いきれるし、また対照となっているものが、それだけほか求めても得られないものではないから、自分自身ほか感じられない、内心の苦痛だけですむが……庸之助が、この店としては咎《とが》めずには済まされないことをしているとは、思うだけでも浩は辛かった。が、嬉しいことに、彼の不安は単に杞憂に過ぎなかった。帳簿には、一厘一毛、疑問な点さえもなかったのである。
けれども、頭を集めて調べていた連中の中からは、
「なあんだ! 何でもなかったじゃないかい!」
という不満そうな、つぶやきが起った。上役の者までが、意外そうな――少くもただ安心したというだけではない――表情を浮べて、「偉い時間《ひま》潰しをやったなあ」と云いながら、帳簿を伏せるのを見た浩は、思わず愕然とした。ほんとうにゾッとした。
「彼が正直であったのが、皆は不平なのだ! 若し、一ヵ処でも掛け先を、ごまかしてでもいたら、どんなに噪《は》しゃぐつもりだったのだ!」
憤り――友愛に強められ、燃え立った憤り――が、彼の胸一杯になった。何か云わずにはおられない感情が、喉元に込み上げた。けれども言葉が見つからなかった。何と云って好いか分らなくなって、彼はフイと、部屋を出てしまった。
それからやや暫く、仲間の一人が彼を捜しに来るまで、浩は彼の「隠れ家」と呼んでいる石段で、種々な考えに沈んでいた。(K商店の二棟の建物を、接続している廊下の外に、六段ほど苔に包まれた石段がついていた。日光が、建物に遮られて、直射したことがないので、石段から拡がっている二坪ほどの地面には、一杯苔がついて、陰気ではなかったが、外のどこよりも落付いていた。浩はそこに腰をかけては考えるべきことを考えた。隠れ家というのが、自ずとそこを呼ぶ名になっていたのである。)彼は、どんな人に対してでも、善人だとか悪人だとかいう断定は下されないものだと思った。「まして、或る人のすることは、悪いに定まっているなどと思ってはすまない。互に許し合って行かなければいけない……けれども」彼は、憤りとか、憎しみとか、抵抗とかいうことを、全然、自分の心から除去してしまうことはとうてい不可能であった。「何か一つ過失をした者の前に、我々は決して、尊大に完全そうにかまえてはいけない。自分でもいつ、するか分らないじゃあないか?」浩は「お互に人間なのだから、出来るだけ愛しあって、仲よくして行かなければいけない」と思っている。そして、弱い者の前に、強がっている者を見ると腹が立つ。特殊な自分の権利を勢一杯利用してそういう特典を持たない者に誇ろうとする者に対して憤りを感じる。
けれども、もっともっと自分が努めて、心を練り、善くし、賢くしたら、腹を立てることも、憎むこともなくなる――例えば、Aという金持の男と、Gという貧乏のどん底にいる男がある。Aが、何の働きもせずに、それでいて立派な生活をしているのを、いくら働いても食うだけのことも出来ないGが、「ああ羨しいなあ」と思い、やがては、狂的な嫉妬で、Aを殺してしまう。金を欲しいのでもない。GにはただAの面を見ると癪《しゃく》に触るという心だけが強かったのである。Aの家族は悲しむ。Gを憎む。出来るだけ酷刑に処してもらいたいと思う。が、死刑にされても、まだ足らなく思う。こういうときに、Gの心持も、Aの家族の心持も、どちらも肯定され、理智的ばかりでなく、ほんとうの心から、両方ながら憎む念などはない――というようになるはずなのかもしれないとも思った。がそれは大変むずかしいことだ。
「すべて好い……」という言葉を思い浮べて、彼は涙をこぼした。
七
ちょうどこのとき、東京駅には、下関発の急行列車が到着した。彼等の頭を押し潰されそうに、重苦しく陰気な通路から、吐き出されたたくさんの旅客の中に混って、庸之助の姿が見えた。小さい鞄を一つ下げ、落着かない目で周囲を見まわしていた彼は、やがて飛び出すように雑沓するうちを、かき分けてどこかへ行ってしまった。都会の中央の、この忙がしいうちで、何の奇もない、田舎者丸出しの一青年の彼に、注意を引かれた者は、ただの一人もなかった。
庸之助は、あの日に東京を立つと、ほとんど夢中で故郷の小さい町まで運ばれて行った。そして、停車場へつくとすぐその足で、かねて見知り越しであり、今度の父親の事件に関係した某弁護士を訪ねた。職業から来る、おもおもしいまた、幾分傲慢のようにも思われる弁護士の前に、息をつめて立っている庸之助の、煤煙や塵に穢《よご》れ、不眠で疲れきり、青黒く膏《あぶら》の浮いた顔は、非常に憔悴《しょうすい》して見えた。
弁護士は、一通り形式的な同情を表してから、事件の説明にかかった。彼の言に依れば、今度の事件の陰には、もっとたくさんの小事件が伏在していて、三年前に、郡役所の増築のあった頃から胚胎していたものであったそうだ。町長、町会議員の選挙の時々に、行われていたいろいろな術策なども、法律上からいえば、立派に一つ一つの罪状となっていたのである。父親の行為からいえば、二年の刑期はむしろ軽いと云わねばならぬ。
「それが私の腕一杯でもあったし、また法律上の許す範囲では恐らくこれが限度だったのでしょう」
最後に弁護士が、落付いた口吻《こうふん》で、云いおわったとき、庸之助は、大きな力でぶちのめされたような気がした。土気色な顔をし、手足を氷のようにして、うなだれている彼の唇は、ビリビリと痙攣していた。
「分りました。有難う、実に……」
こわばった舌で、辛うじてこれだけ云うと、彼は早速|暇《いとま》をつげた。
どこをどう歩いているのか解らずに、ただやたらに足を動かしていた彼は、しばしば「冤罪《えんざい》だ! 実に恐ろしい冤罪だ!」とつぶやいた。けれども、何か心の中で、ヒソヒソと、それを否定している響があった。
「冤罪だ? お前の父親が?」
通る者の誰も誰もが、自分の顔を見ては、微かながら、侮蔑的な注目を与えて行き過ぎるのを彼は感じた。
「お前かい? 息子というのは……」
どの目もどの目も咎める。身の置場のないというような不安が、始めて庸之助の心に強く強く湧いたのである。永住の地と思い定めて帰った故郷も、やはり今の自分を安らかに、落付かせてはくれぬ。狭量な、無智な批評の焦点となろうよりは――。どんな人間でも匿《かくま》う穴や、小道の多い東京へまた戻る決心をした。
もう再び踏まぬかもしれぬ土地と離れるときに、せめて父親にでも会って行きたかった。監獄の門まで行ったことさえあった。が、考えて見れば、「公明正大」とあんなに書いてよこした彼が、赤衣を着、鎖につながれた姿を見ることは、また見せることは互に、何という辛いことか、たとい冤罪にしろ(庸之助は冤罪という字を見ると、心がグーッと圧しつぶされた。)余り苦しすぎる。恐ろしい。とうとう面会を断念して彼は、僅かでも二人の間に、「何がほんとだか解らないもの」を置きたかったのである。
東京へ一足踏み込むと同時に、すべてを諦めてどこかの職工にでもなろうと思って来た、彼の心は動かされた。名誉心、功名心を刺戟するあらゆる事物が、年若い彼を苦しめ、虐《さい》なんだ。自分よりもっともっと学問のない、力のない者まで、社会の表面で相当に活動しているのを見ると、今更自分をさほどまでに見下げることも、躊躇《ちゅうちょ》された。たといのろのろとではあっても、周囲の若い者達が出世の道をはかどらせているうちに、自分一人わざと取り残される必要もなく思えた。
木賃宿に近いほど
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