お咲のこの涙のこぼれるやさしい心持は、彼女の周囲のすべての心を和らげた。私立のとかく三等の患者などに対して、一種の態度を持つ癖のついている病院内の者まで、お咲に対して圧迫するような口は利けなかった。皆が彼女に好意を持ち、「五号の患者さんは、何て心がやさしいんでしょうねえ」などと看護婦が噂するほどであった。が、一日一日とかさんで行く費用が、家族の頭を苦しめる問題であった。金策のため、孝之進の出京はますます必要になってきたのである。
 手紙ばかり、いくら度々よこされても、孝之進は上京する決心が着かなかった。金のできるあてもない。それをただ体ばかり運んでいっても仕方がないと思っていたのである。――藩の近習として、家老の父を持ち、ああいう生活をしていたこの自分が、今、娘の療治に使う金さえ持たないということを考えると、憤りもされない心持がした。どうにもならない時世が、あのときとこのときとの間に、手を拡げていることを孝之進は感じた。が、事態は終に彼を動かしてしまった。あるだけの金を掻き集めて、孝之進は上京したのである。
 東京に行ったところで、何一つ自分を喜ばせるものはないのだと、思いきめて来てみると、先ず第一停車場に出迎に来ていた浩を見たときから、それはまるで反対になってしまった。
 あんなに小《ちっ》ぽけな、瘠せた小伜《せがれ》であった浩が、自分より大きな、ガッシリと頼もしげな若者になっているのを、むさぼるように見ると、
「オー」
という唸り声が口を突いて出た。
「生意気そうな若者になりおったなあ」
 肩を叩きながら、彼は泣き笑いした。
 彼の一挙一動はひどく浩の心を刺戟した。身のこなしに老年の衰えが明かになって来た彼、少くとも浩の記憶に遺っていた面影よりは、五年の月日があまり年をよらせ過ぎたように見える彼に対して、浩は痛ましい感にうたれた。そして浩がさとった通り、孝之進は健康な息子に会うことも、生きられた――ほんとうに、もうすんでのところで、してやられるところだった危い命を取り止めた――娘に話すことがどのくらい嬉しかったか分らないのである。けれども、金のことになると――。孝之進の頭はめちゃめちゃになった。堪らなかった。そして歯と歯の間で、彼はいまいましげに唸るのであった。
 電車が! 自動車が吠えて行く。走る車、敷石道を行く人の足音。犬がじゃれ、子供が泣き、屋根樋に雀が騒ぐ……。自転車が蹴立てて通る塵埃《じんあい》を透して、都会の太陽が、赤味を帯びて照っている。
 正午《ひる》少し過ぎの、まぶしい町を孝之進は臆病に歩いて行った。何も彼も賑やかすぎ、激しすぎた。目が不自由なため、絶えず危険の予感に襲われている彼は、往来を何かが唸って駆け抜けると、どんなに隅の方へよっていても、のめって轢《ひ》かれそうな不安を感じた。縋《すが》る者もない彼は、脇に抱えた縞木綿の風呂敷包みをしっかりと持って、探り足で歩いた。国から持ってきた「狙仙」の軸を金に代えようとして行くのである。鈍い足取りで動く彼の姿は、トットッ、トットッと流れて行く川面に、ただ一つ漂っている空俵のように見えた。
「これはどんなものだろうな?」
 孝之進は、自分で包から出した「狙仙」を、番頭と並んで坐っている主人に見せた。
「さあ、どれちょっと拝見を……」
 利にさとい主人は、絵を見る振りをして、孝之進の服装《みなり》その他に、鋭い目を投げた。そして何の興味も引かれないらしい、冷かな表情を浮べながら、
「真物《ほんもの》じゃあございませんねえ……」
と云った。列《なら》べてある僅かの骨董などを、ぼんやり見ていた孝之進は、さほど失望も感じなかった。
「そうかな? 頼んだ人は(彼はちょっとためらった)真物に違いないと云っておったんだが……」
「ハハハハ。そりゃあどうも……。こう申しちゃ何でございますが、贋物《にせもの》にしてもずいぶんひどい方で。へへへへ」
 それから主人は、孝之進がうんざりするほど、贋だという証拠を並べたてた。
「が、せっかくでございますから、十円で宜しきゃ頂いときましょう。それもまあ、狙仙だからのことで……」
 孝之進は、主人が列挙したような欠点――例えば、子猿の爪の先を狙仙はこう書かなかったとか、眼玉がどっちによりすぎているとかいう――を、一つ一つ真偽の区別をつけるほど、鑑賞眼に発達していない。(若し主人のいうことが事実としたら)それに、また持って歩いて、どうするという気になれないほど、体も疲れている。「一層《いっそ》売……」けれども、考えてみればかりにも家老の家柄で、代々遺して来たものに、偽物のあることは、まあ無い方が確かだろうとも思われる。うっかり口車になど乗せられて堪るものかと感じた。で、彼は売るのをやめて、帰ろうとまで思ったが、差し迫っては十円あってもよほど助かる。彼はとうとう決心をした。そして、皺だらけな札と引きかえに、家代々伝わってきた「子猿之図」を永久に手離してしまったのである。

        五

「ホーラ見ろ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 庸之助は飛び上った。
 若し万一、かの記事通りの恥ずべき行為があったなら、親子もろとも、枕を並べて切腹するほかないとまで思いつめて、事実を訊ねてやった返事として、父自身で書いたこの、この手紙を貰ったのだと思うと、五日の間あれほどまでに苦しんだ煩悶が、驚歎せずにはいられない速さで、彼の心から消えてしまった。激しい嬉しさで、彼はどうして好いか解らなかった。ひとりでに大きな声が、
「ホーラ見ろ! 僕の思った通り、きっかりその通りじゃあないか! 見ろやい※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
と叫んで、じっとしていられない二つの手が、無意識に持った手紙をくちゃくちゃにまるめた。書面のあちらこちらに散在している「公明正大」という四字が、天から地まで一杯に拡がって、仁丹の広告のように、パッと現われたり消えたりしているのを彼は感じた。
「さすがは父さんだ。偉い! 見上げたものだ。なにね、そりゃ始めっからキットこうなんだとは思っていたんだが、ちっとばかり心配だったんでね、父さん! ハハハハハ」
 満足するほど、独りで泣いたり笑ったりしたあげく、融けそうな微笑を浮べながら、庸之助は部屋に戻ってきて、何か書きものをしている浩のところへ、真直に進んで行った。肩に手をかけた。
「オイ! よかったよ!」
 弾んだ声が唇を離れると同時に、肩に乗せていた彼の手の先には、無意識に力が入って、握っていたペンから、飛沫《しぶき》になってインクが飛び散るほど、浩の体をゆりこくった。
「う?」
「よかったよ君! もうすっかり解った。何でもなかったんだよ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 笑み崩れた庸之助の顔が、「あのことだよあのことだよ」と囁やいた。
「え? ほんとうかい? ほんとうに何でもなかったんかい? そーうかい! そりゃあほんとによかったねえ君! ほんとうによかった!」
 極度の喜びで興奮して、ほとんど狂暴に近い表情をしている庸之助の顔を、一目見た浩の顔にもまたそれに近いほどの嬉しさが表われた。
「よかったねえ。おめでたかったねえ……」
 浩は、庸之助の肩を優しく叩きながら、感動した声でいったのである。
「情けないが事実に違いないと思ったのに……。そうだったのか! ほんとうに何よりだ。嬉しいだろう? 君! 結構なことだったなあ!」
 庸之助は、翌日から浩の目には、いじらしく見えるほど、元気よく、一生懸命にすべてのことにつとめた。店の仕事はもちろん、自習している数学や英語にでも、今までの倍ほどの努力を惜しまない。そして、わざわざ浩を捕えては、「あのとき、君は分らないって云ったねえ」と、そのつど新しい喜びに打たれるらしい声で繰返しては、愉快げに笑った。
 けれども、事件はまるで反対の方に進行していたのであった。有力な弁護があったりして、一旦帰宅を許されていた好親は、ちょうど好い工合にそのとき、息子からの手紙を受取り、返事を遣《や》った。が、それが東京へ着いたか着かぬに、彼の最も信用していた男が、予審でうっかり一言、口を滑らしたがために、好親の運命は、最も悪い方に定まってしまった。予審、公判、宣告、すべては順序よくサッサと運ばれ、彼は二年の苦役を課されたのである。
 庸之助の「信頼すべき父親」の一生に、最後の打撃が与えられた日の翌日は、祭日であった。
 浩は朝早く店を出て、十時過になって帰って来た。一歩、部屋の中にふみ込んだとき、浩は自分を迎えた数多《あまた》の顔に、一種の動揺が表われているのを直覚した。ざわめいた、落着きのない空気が彼の周囲を取り囲んだ。浩は、何か求めるように部屋中を見まわして、「どうかしたのかい?」と云おうとした刹那、その機先を制して、興奮した声で奥の方から、
「庸さんが帰っちゃったよ。親父が、牢屋へぶちこまれたんだとさ!」
と叫んだ者がある。訳の分らない笑い声が起った。そして誰も誰もが、変幅対の相棒を失った彼――何ぞといっては庸之助の味方になっていた彼――が、どんなにびっくりもし、失望もすることかというような、好奇心に満ちた目をそばだてた。けれども、皆は少しがっかりした。彼等の期待していた通りに場面は展開されなかったのである。浩は庸之助のことなどに無関心であるかと思うほど、平然としていた。「そんなことが、なんだい?」と云っているように見える。少なくとも、若い者達の予期を全然裏切った態度に見えた。が、彼の衷心はまるで反対であった。複雑な感動で極度に緊張した彼の頭は、悲哀とか、驚愕とか、箇々別々に感情を切りはなして意識する余裕を持たなかった。心のどこかに、大穴がポッカリ明いたようでもある。体中に強い圧《おもし》を加えられているようで、息苦しかった。目の奥で天井と床が一かたまりに見えるほど混乱しながら、傍で見れば、茫然と無感動らしい挙動で、浩は今まで庸之助の使っていた机上に、並べられてある遺留品を眺めていた。使いかけの赤、黒のインク壺、硯、その他|塵紙《ちりがみ》や古雑誌のゴタゴタしている真中に、黒く足跡のついた上草履が、誰かのいたずらで、きっちり並べられてある。指紋まで見えそうに写っている足跡を見ると、浩は急に、年中湿って冷たかった、膏性《あぶらしょう》の庸之助の手の感触を思い出した。その思い出が、急に焼けつくほどの愛情を燃え立たせた。彼の心に、はっきりと淋しさが辷り込んで来た。涙がおのずと湧いた。
「とうとうこうなったなあ……。あの人も好い人だったのに!」
 自分の机に坐って、あて途もなくあるものに、手を触れて心をまぎらそうとしていた彼は、鉄の文鎮《ぶんちん》の下に、一本の封書を発見した。ハッと思って、一度目はほとんど意味も分らずに読んだ。二度三度、浩は一行ほか書いてない庸之助の置手紙を離そうともしなかった。それは端々の震えた字――読み難いほど画の乱れたよろけた字――で、「もう二度とは会わない。親切を謝す。Y生」と、弓形《ゆみなり》に曲ってただ一行ほか書かれてはいなかったが、浩にとっては、それ等の言葉から三行も四行もの意味がよみとれたのである。
「木綿さん」というかわり、もう庸之助には、「火の子」という綽名《あだな》が付いていた。赤い着物の子で、それ自身もいつ、火事を起すか解らない危険性を帯びているからというのであった。
 平常からずいぶん反感は持ちながら、さほどの腹癒せもできずにいた者達は、庸之助の不幸をほんとに小気味よくほか思っていないことは、浩に不快なやがては、恐しいという感じを起させた。抵抗力のないものに対して、どこまでも、自分等の力を振りまわし、威張り、縮み上らせたがっているらしいのが、厭《いや》であった。雇人が勤勉であることを希望しながら、一種の雇人根性を当然なものとして扱いつけている、店の先輩達は、庸之助が去るときまで持続した、忠実な態度を、そのまま無邪気にうけ入れられないらしかった。こうなると、彼が正直で、よく働く若い者であったという、普通ならば、賞《ほ》めらるべき経歴まで、悪罵の種にほか
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