、下等な旅館の中二階で、昼飯がわりの焼薯《やきいも》を、ボツボツ食べながら、庸之助は身の振り方に迷っていたのである。
 けれども父親の上京などで、せわしい日を送っている浩は、庸之助が浅草の一隅で、そんな風にしていようとは、もちろん知ろうはずもなかったし、考えられもしないことであった。彼は、病院と父親のいる小石川の家との間を、いろいろな用件で往復していたのである。
 このごろになっては、もうお咲も、良くなるだけよくなりきってしまったような容態であった。重く考えている浩にも、彼女の顔色や髪の艶などは、以前よりも健康らしくなったことは否めない事実である。こうなってからまで病院の世話になっているのは、金持のすることだという皆の思いが、やがてお咲自身にも退院を思い立たせた。医者も止めはしなかった。これから先の治療は、彼等が工面し、掻き集めて出す費用に匹敵するほど、現われた効果がないので、ちょうど孝之進の目が、どうせは盲目になると定まってからは、無理でない程度の読み書きを許された通りの心持なり事の成り行きなりが、お咲の上にも繰返されたのである。退院したとはいっても、一月に一週間ずつ入院して注射を受けなければならない条件つきであった。それ故、その毎月に一回ずつの入院費の支出に就ても、彼等はまた工夫しなければならない。自分のためにせずとも好い借金をさせたり、相談をさせたりすることに、すっかり気がひけて、家中の者に気がねしているお咲を見るのが浩には辛かった。この金目のかかる病人一人を抱えて、家の者は一人として、そのような言葉を口にこそ出さなかったけれども、互の顔が合うたびに、目と目が言葉にしないこういう心持をつぶやき合った。――家中がどんなに、湿っぽく暗くなっているか解らない、これというのも皆あれのおかげだ。浩は金が欲しいと思った。二十円でもまとまった金があれば、今の皆の心がどんなに引き立てられるかしれないし、また姉にしろ、身を削るような涙をこぼさずとも済む。金があったらなあと、はっきりつぶやきそうにまで、ほんとうに強く彼は思った。けれども十五円ほか月に貰わない――それもようよう今年の四月から――で、貯蓄などは出来ないのに、二十円はおろか五円だって、右から左へ動く金は持っていない。今までだとて浩はもちろん、決して豊かな若者ではなかった。けれども金には――ただ本を買う場合を除いて――すべてのときかなり、さっぱりしていた。が、年を取り、衰えきったような父親が、苦しそうな思案に暮れているのを見ると、また、姉が啜泣きながら、「こんなに辛い思いをかけたり、自分でもするくらいなら、私ちょっとも癒りたくなんぞなかったわ」と云っているのを見ると、浩の心は乱された。どうにかしたいと思った。店で、帳簿に何万何千という金額を幾通りも幾通りも記入していると、浩には余り多過ぎて、平常ああやって通用している金なのだとは思えないような気がした。
 苦しい思いで埋まったような毎日を送りながら、浩はフト思いついて、万朝に短篇の小説を投書した。腕試しということもあるが、賞金を一層彼は望んでいたのである。けれども、結果は反対になってしまった。掲載され、金を送られてみると、彼にとっては、待ちに待っていた十円よりも、掲載されたということの方が倍も倍も嬉しかった。彼は興奮した。以前から、単に趣味というよりは、もっと喰差さった愛情、畏敬を持って文学に接していた彼は、このことで彼の境遇としてはかなり大きな励ましを得たのであった。
 十円。持った瞬間彼の頭のうちには、買いたい本がずらりと並んでおいでおいでをした。けれどもすぐその晩、浩は、お咲の手にそっくり渡して来てしまった。
 その次にお咲や孝之進などに会ったとき、浩は足の裏がムズムズするような気がした。「あの自分にとっては、忘れ難い十円を皆のために手離したのだ。よかった。けれども……?」彼は誰か何かそれに就いて云い出しはすまいかと思った。そして、心のどこかで待っていた。が、帰るまで終に一言も、それが云い出されなかったときには、安心したような物足りないような心持が、一杯になっていたのであった。
 浩の十円は、役には立ったに違いないが、孝之進の苦労を軽めることはもちろん出来ない。彼は窮した。そして終に高瀬という、先代からの知己で、浩の身の上も心配していてくれる家に、月十円ずつの出費を頼みに出かけた。
 主人夫婦は非常に同情した。丁寧に相談に乗って、
「どうにかしてはあげたいが、何にしろ月十円ずつ、限りなくということは、なかなか難かしいことだから」という言葉が繰返された結果、或る一つの案が出された。それは、孝之進のいる村の、Mという物持ちの先代が、企業の資本としていくばくかの金を、高瀬から借用したままになっているから、それを返済させるように骨を折ってくれれば、互に借りるとか貸すとかいう心持なしで、相当な費用を出してあげられるというのであった。その金額は大きかったが、現在のM家の経済状態では何でもないことであった。成功する望みが、孝之進の目にさえ明かなものであった。

        八

 それから間のない或る日のことである。
 商品の新荷が到着したばかりのK商店は大混雑をしていた。裏の空地で多勢の人足が荷を動かす掛声、地響、荷車の軋《きし》り。倉庫へ運び込む一|騒動《さわぎ》、帳簿との引合せなどで、店員は大抵表や裏に出払っている。好奇心に馳られて、太い長いボールトで押しつぶされそうになるのも知らないで、覗いているたくさんの子供や子守を追いはらうだけでさえ一役であったのだ。
 浩は平常の通り自分の机の前に腰かけて、帳簿を整理していた。外界から来る雑駁《ざっぱく》な刺戟と、内心のかなりに纏《まと》まっている落着きが、皮膚の表面で混乱しているような心持になりながら、彼は指の先を汚して――浩はペン軸のごくの下部を握るので人指し指の先と中指の第一の関節をめちゃめちゃに汚す癖を持っている――せっせと数字を書き込んでいると、突然大きな音を立てて電話が鳴った。彼は頭を上げた。
「誰かいないかな?」目で捜《たず》ねたけれど、自分を措いて誰も見えないので、浩はいつもの癖通り左の耳に受話機を取りあげた。
「モシ、モシ、あなたはK商店ですか?」
 太い声が、最初のモシ、モシと云うのに、非常に抑揚をつけ、区切りを切って呼びかけた。Sという大きな会社の庶務から、取締りに出て欲しいと云うのであった。Sというのは、平常店とはほとんど関係のない会社なので、解せない顔をして出て行った取締りは、かなり長く何か話していたが、やがて帰りしなに浩の傍を通りながら、「杵築のことを訊いて来たよ」と一口云って、そのまま行ってしまった。
「杵築のこと?」あまりいきなりだったので訳の分らなかった浩は、暫く考えているうちに、就職のことについて問い合わせがあったのだということが解った。
「就職? それじゃあ東京に出て来たと見えるなあ。Sの事務に入ろうとしているのだ!」
 そう思うと同時に、彼は取締りが何と云ったかということが非常に不安になって来た。庸之助が自分の一生に見切りをつけてしまい得なかったということが、一面非常に嬉しかったと共に、何だか痛ましいような気もした。
 自分で自分をどう処置して好いか解らないほど、強い激しい、内心の動揺や争闘に苦しみぬくとき、浩はあまり辛いと、ただの一秒でも好いから、何も思いも感じもしなくなってみたいと、冗談でなく思う。何一つ音のしない、物のないところに、目を瞑《つぶ》って坐っていたくなる。けれどもそれならばといって、続々起って来る疑問や感激や思想の変化に伴って来る一種の不安定さなどを、回避しようかといえば、そうではない。彼の衷心では努力、ただ努力と絶叫している。「どんなに辛くても辛棒しろ。じッと踏みこたえて前へ進め。努力、お前を改善するのは努力だけだぞ! しっかりしろ我が若者!」極度な静寂を求める心の一面には、高々とこう叫ばれる。「そうだ! ほんとうにしっかりしろ、我が心※[#感嘆符二つ、1−8−75]」彼は感激して涙をこぼす。ますます努める。彼の心は苦しむ。いよいよ苦しんで突き通るべきいろいろのものにぶつかる。
 それ故、彼はどのような苦痛――外面的にも内面的にも――が現われようが、それに負けて引き下る自分を予想し得ない。従って彼は何事も諦めきれない。失敗した人が、どうせ駄目なことは第三者の目から見れば明白なのに、「新規蒔きなおし」に遣りだす心持はよく分る。ネロが、短剣を胸に擬してまでも自分が今こうやって死ななければならないことを諦められなかった心持を思うと、浩は、男らしくないとか卑怯だとかいうことを通り越して、ひしひしと自分に直接な共鳴を感じるのであった。それ故、庸之助がまた上京し、Sへ勤めようとすることは彼に充分同情出来た。
「それに、あの人は、何も自分自身を見捨てる理由はないのだ。どうぞうまく、まとまれば好いがなあ……」
 浩は、庸之助の体を、高く高く両手に捧げて、ドシドシと大きな広い公平な道を歩いて行きたいような心持がした。けれども、庸之助が働かなければならない普通の世間では、庸之助の父親は「罪人」――浩は、「罪人」と云うとき、例えば「あいつは一度牢へ入って来たんだとさ」と云うとき、一種異った表情を大抵の人は現わすことを、認めている。――で、庸之助のような「罪人の息子」は自分等の仲間に入れて置かれないように考えられている。
 多勢子供達が遊んでいる。「鬼ごっこするから、お――いで。鬼ごっこするからお――いで!」歌いながら、手を組み合って、仲間を集めているところへ、弱いおとなしい子が来かかって、入れて欲しそうな顔をする。歌っていた子達がそれと見ると、急に丸くなって「ねっきりはっきり、これっきり、あとから来る者入れないぞ」と叫びながらまとまってしまう。除《の》けものにされた子供は、そんな仲間を憎まないだけ心が善くなるか、それ等を向うに廻して勝つだけ、悪くも強くもなるかしなければならないようになって来る。
 庸之助の現在の位置は、そうではあるまいかと、浩は思った。大きな会社とか商店とかいう、希望者の多いところでは、彼一人断わるということに何の痛痒《つうよう》も感じないのだ。世間多数の人々を対手にして行くには、対手になる人がちょっとでも不安や不愉快に思うものを、たといそれがどんなに些細なことでも、保持して行くことは、会社として商店として不得策なことは、彼にもよく分っている。「取締りの人は、彼を弁護し、或は賞揚して置いたかもしれない。けれども突然彼が辞した理由を説明すれば、万事は定まってしまう。ほんとにもう何も云うことはないというほど、きっぱり定まってしまうのである。」彼は、妙に悲しいような、大きな愛情と大きな反感に縺《もつ》れた心持に打たれたのであった。
 それから二度ほど、めいめい違った会社や商店から、庸之助に就ての間合わせが来た。それが若い者の仲間に知れわたると、まるで彼が生きているということからが、既に自分等に対して僭越であるような、冷笑《ひやかし》や罵詈《ののしり》が、彼の名に向って浴せかけられたのである。
 浩は、非常に不安であった。この東京の中に、次第に悲境に沈みつつある? 自分の親しい友達がいる。自分の目から遁《のが》れていると思うだけで、非常に心が平らかではなくなった。始終心の隅に、彼の名と姿がいろいろな想像を加えられて重く横たわっていたのである。

 往来は混んでいた。今出たばかりの――行きの電車に追いつこうとして駈け出した浩は、とある本屋の傍まで来かかると、つい今まで自分のすぐのところで鈴を鳴らしていた夕刊売が、急にあわてた様子で身をよけたのに、フト注意を引かれた。足が鈍った。思わず振返った。そして何かから遁れるように両手で人波を掻きわけ掻きわけ、急いで行く後姿――どの売子もする通りに、社の名が染め抜きになっている印袢纏《しるしばんてん》を着て、籠を斜にかけた後姿――を眺めた。浩は、彼の驚きの原因を求めようとして周囲を見まわし
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