る。字をたどりながら、彼の頭は、酒の香いと、味と、どうしたらこれに勝てるかということで一杯になっていたのである。皆が、自分の心の奥を見透しているのが知れれば知れるほど、庸之助はそうでないらしく見せたかった。今飲む酒は、単に自分を酒に負けただけに止めて置かないことを知っている彼は、どんなにしても辛抱し通さなければならなかったのである。
「けれどもまた何という高い香いだろう!」
 鼻を通り喉を過ぎ、胸の辺で吸い込んだ香いのかたまりが、熱くなって動きまわった。ムズムズ不安が心を乱す。負けてはならぬぞ。負けては大変だぞ! と思えば思うほど、無性《むしょう》に飲みたくなる。チラリと仲間の方を偸み見ながら、彼はゴクリと喉を鳴らした。
 それが不幸にも、彼等の目に止まった。
「へ! あの面!」
「こわがっていやがらあ!」
 賤しい笑い声がどよめいた。猪口や徳利《とくり》がガチャガチャ鳴った。
「まだ降参しねえんかい? わるく強情だなあ」
「怨めしいような面あしてやがるわ!」
「ここまでお出で、甘酒進上だ! へへへへへ」
「どうせ飲むんじゃあねえか? その面あ何だい!」
「喉から手が出そうだあな、馬鹿!」
「かまうない※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 庸之助は怒鳴った。
「かまうない! 畜生※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 けれども、もう危いと彼は直覚した。もう危ない。わざと目の前に出された猪口の中で、黄色く光っている液体に向って、制御しきれない勢で、心がころげて行くのを感じた。ちょうど止め度を失った車輪が、急傾斜な坂道をころがり出した通りに。
 庸之助はいても立ってもいられない心持になって、いずまいをなおしたとき、よろよろする一人が猪口と徳利を持って彼の前に進んで来た。
 突出した両手のなかで、猪口の縁と、徳利の口がカチカチとぶつかり合う。コクン、コクン酒が猪口に流れ出す! 庸之助は我にもあらず突立ち上った。顔をのめり出させて、凝視する眼が、貪婪《どんらん》に輝やいて酒の表面に吸い寄せられていた。極度の緊張と激昂とで、庸之助は傍でガヤガヤ騒ぐ物音などは、耳にも入らなかったのである。
「飲め!」
 彼はボタボタ雫をたらしながら、庸之助の口の辺へ猪口をさしつけた。痛いほど高い、高い香りがギーンと頭へ響く。
「飲めったら!」
「※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 庸之助は、いきなり相手の体に突掛かった。そして徳利に手をかけるや否や、満身の力をこめて、撲りつけた。徳利に触れた瞬間彼の衷心には、破れかぶれな、いっそ一息に煽ってやれというような思いが猛然と湧いていた。けれども次の瞬間、彼の手が無意識に振り上って、堅い手応えを感じた刹那、飽くことを知らぬ残忍性、気の違う憎しみが、暴風のように彼の心に巻き起ったのである。
 皆の立ち騒ぐ音に混って、上ずった庸之助の叫び声が物凄く響いた。器物の壊れる音。叫び。揺れる灯かげに、よろばいながら動くたくさんの人かげ。
 庸之助は、ますます狂暴になった。手にさわるものを、ひっつかんでは投げつけ、投げ倒し、阿修羅のように荒れまわった彼は、何か一つのものを力一杯撲りつけたとき、酒にまじって、生暖かい、咽《む》せるような生臭いものが、顔にとびかかって来たのを感じた。
「血※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
 彼は、思わずたゆたって、よろけた。
「血! 人殺し! 人殺し※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
 彼は身震いを一つすると一緒に、前後も見ずに裸足《はだし》のまま、戸外《おもて》へ飛び出してしまった。
 霧雨のする闇路を、庸之助は一散に馳けた。

 それから彼が、鯡場《にしんば》の人足となるまでのことなどはもちろん、浩はこの騒ぎさえも知らなかった。
 苗字もなく、生きているのさえうんざりした者達の集っている、暗い罪悪にまみれている世界では、そのようなことは何でもない。三面記事にさえ、載せきれない「彼等のいがみ合い」の一つとして、世の中の上澄みは、相変らず、手綺麗に上品に、僅かの動揺さえも感じずに、すべてが、しっくり落付いていたのである。

        十八

 それから暫く立っての或る日、浩は父親が卒倒したという知らせを受けた。
 後から後からと押しよせて来る不幸な出来ごと――自分の若さと健康、希望を持って励んでいる者にさえ、堪えがたく思わせるほどの悲しい事件――がどのくらい父親の老いた、疲れきってすぐ欠けそうにもろくなった心に打撃を与えたかということは、思いやるに十分であった。めきめきと衰えて行くらしい様子を考えると、全くゾッとした。今若し彼に万一のことがあったら一家はどうなるか? 自分の腕で老母とお咲親子を扶養して行かれないのは、こわいほど明白なことである。それかといって、どこに、何といって縋《すが》りつけるか? 浩はそれ等の限りないことに考え及ぶと、ただ小さい、力弱い自分ばかりが悔まれるのである。自分の年はどうにもしようがないのだとは思いながら、せめて三十近くにもなっていたら、どのくらいすべてが工合よく行ったか分らないのにという心持さえした。
 けれども、それ等はただ思うだけのことで、彼はやはりK商店の事務机の前に、勤勉でなければならなかったのである。それが彼の最上である。が、浩が要求する最上の標準に比べて、現在自分が実現することを許されている最上は、何という低い、小量のものであったろう! どんな人にとっても、ほんとうに世の中はただ楽しいものではない。光輝あるものではない。辛い。
 時には独り、全く独りで奮闘するのに堪えられないようになる。
「けれどもお前は男だ! しっかりしろ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 浩は、無音無形の、彼の守りに励まされては、涙を呑みこみ、足を踏みしめて、彼の道を進もうと努力していたのである。
 孝之進の健康は、浩の想像したより悪かった。彼はもうすっかり、永年の積り積った苦労に打ち負かされてしまったのである。
 お咲の部屋の、無双窓の下に敷いた床から離れることは、ほとんど出来ないようになった孝之進は、急に七十を越したように見える。すべての精神活動が鈍って、ただまじまじと一日中を送っている彼の仕事といえば、折々、枕の下に隠して置く浩からの手紙――もちろん時には、拡げたまま、布団の上に忘れて置くこともあるが――を偸み読みすることと、大きな大きな鼾《いびき》をかいて、眠ることとであった。眠っている間に見た夢と、現在の事実とが混同して、目が覚めたばかりには、妙に調和のとれない心持になどなった。
 M家の金のことなどは、もう思い出しても見なかった。考えて、気を揉んでも、体の自由は利かず、どうせなるようにほかならぬという心持もした。何もかも気がなくなった。自分の命に対しても、彼は愛情も憎しみも感じないようになってしまったのである。
 今も孝之進は、人気のないのを幸、例の通り手紙をとり出した。そして、昨日読まなかった分から、一通とり出した。それは浩が、おらくあてに書きながら、孝之進にもよめるように、いつもの大きな字で、父親の体を案じていること、自分の力の弱いことを気の毒に思うことを述べたものであった。一字、一字に浩の衷心から湧き出した優しい慰撫が漲っている。心のうちで、出来るだけくさしながら読んで行っても、孝之進の目にはしきりに涙が浮んだ。
 頭をガクンガクンさせながら、「もっともだ、もっともだ」と呟いては涙をこぼしていた孝之進は、フト今までひそまり返って物音一つしなかった隣室で、お咲の身じろぐ音を聞きつけると、急に気がついて、こごんだ体を引き起しながら、あちこちを見まわした。猫の子にさえも、泣顔などは見せたくなかった彼は、好いあんばいに、誰もいず、また来もしなかったのに少しホッとした心持になった。自分で自分をごまかす空咳を、二つ三つした。そして何心なく振向いて見ると、思いがけず無双の間から、瞳が二つ、キラキラと自分を見ているのに、すっかり驚ろかされた。お咲がこちらを覗いていたのである。
 日光にあたらないのと、病気とで、暗い中から僅か見える彼女の顔は凄い美しさがあった。全く瞬きをしないような光った二つの目は気味悪い。
 先刻《さっき》からの様子を見ていたな! と直覚的に思いながら、孝之進は少し狼狽した口調で云った。
「どうした? 呼ぶか?」
(用事のときには、おらくを呼ぶことになっていた。)
「お父さん。咲二は? 何しているの、呼んで頂戴な?」
 孝之進は、ちょっと顔を曇らせた。そして片手で手紙を枕の下に突込みながら、片手を振り振りなるたけお咲の方は見ないようにして、
「うんよしよし。あっちへ行っておれ」
と優しい声音で云った。
「またうんよしなの? お父さん! どうして咲二にそう会わせて下さらないの? え? ね、どうぞ――ほんとにちょっとで好いんだから、一目で好いのよ」
「ああよし、よし、待っておいで、今に会わせてやる。今に……。な、いくらでも会わせてやる」
「今に、今にって、私もう何度おたのみするんだか知れやしないじゃあないの? ひどいわあんまり!」
 急激に発作して、発狂したお咲は、このごろになっては、次第に精神が鎮まるにつれて、一日の中には、かなり度々正気に戻るようになって来た。
 フト夢からさめたように気が付いた瞬間、彼女は暫く自分がどこにどうしているのやら、まるで解らなかった。けれども、次第に正気でいる時間が長くなり、いつとはなく、ほとんど正調に復した頭脳になって来ると、自分の今までのことが、ちぐはぐながら思いやることが出来た。
 そうなって来ると、お咲には、その無一物な暗い、陰気な一部屋の生活が全く堪らないものに感じられて来た。息子が恋しくなって来た。彼《あ》の命にかけていとおしい咲二の顔を一目でも見たい。
「お母さん!」
という呼び声に飢えている。
 お咲は今まで何度両親に頼んだか分らない。哀訴し、涙をこぼしても、まだ病気が本復しないと思っている彼等はどうしても、咲二を会わせない。それどころかかえって、彼女の目にふれないようにと、心を配っている。「気違いが、自分で気違いだと知っておれば、ほんとうの気違いではないのだ」ということは確かではあるが、お咲に対しては、惨めすぎる。
 会わされなければ、会わされないだけ、お咲の愛情はますます熱度を加えて行くとともに、病的になって来たのであった。
「咲ちゃんや!」
 愛すべき息子の名を思っただけで、彼女の目前には、瞬く間に、彼の全体が浮み上った。
 彼が抱かれたときの膝の重み、腕のからみついた感じ。ほこりまびれに、乾き切った髪の毛の臭いや、彼特有の柿の通りな肌のにおいなどが、苦しいほどの愛情を、そそり立てた。
 ちょっとでも咲二の声が聞えると、飢えきった動物の通り、喘いだり、息をつめたりして耳をすませた上、畳に耳をぴったり貼りつけてまで、僅かな余韻も聞き逃すまいとする。
 閉っている無双窓を、差しているピンの先で、みみずの這うほど僅かずつ、時間をかまわずこじあけて、顔中に縦に赤い縞の出来るのもかまわずに、息子の様子を、偸み見ようとする。
 戸をこじっているとき、唇をかみしめ、かみしめ、外を覗いているとき、彼女の心の中には、ちょうど囚人が、爪の間にかくせるほどの鑢《やすり》で、鉄窓のボールトをすり切ろうとしているときの通りの、寸分異わない熱心さ――常識で判断出来ない忍耐と、努力、想像の許されないほどの巧妙な手段を発見すること――をもって、全身の精力を傾注することを惜しまなかったのである。もちろん惜しい惜しくないは、問題にもならなかったのである。
 それ故、自分の鍾愛《しょうあい》の者に、自由に接近し愛撫し得る、位置にある者すべてに、彼女は病的な嫉妬を感じた。激情が心を荒れまわって、誰彼の区別なく罵った。
「どうしても会わせないの? どうしても?」
 血が燃え上るような憤怒で、彼女は夢中になった。戸を両手や体でガタガタと揺ったり、蹴ったりした。散々荒れまわった末、疲れきって暫く呆然としている彼女の心が、また落付い
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