て来ると、前と同様な苦悩が、お咲の心を掻き乱し、悶えさせたのである。
 お咲は泣きながら、無双から差しこむ、日光の黄色い中に跳ねまわっている塵《ちり》の群を見ながら考えた。
「私はどうすれば好いのだろう? 一生この中で暮さなければならないのか、一生! 一生この中で?」
 彼女は恐ろしさに震えた。
「云うことはとりあげられず、咲二にも会われず、口もきかれず、この苦しい思いをつづけながら、何のために、生きていなけりゃあならないのか?
 咲ちゃん、お前は母さんがこんなにも思っているのが解る? 可愛いお前をみすみす人にとられて、母さんはどうして生きていられよう! たった一人で、幾日も、幾日も、一年も二年も、死ぬまでも気違いだと思われて生きているなんて!」
 お咲の目前には、この上なく恐ろしい、悲しい、身の毛のよだつような幻が現われた。生きながら半身土埋めにされて、野鳥や獣に肉を喰われて、泣き喚めいている者。足の先から血が通わなくなり、死に腐って来る。けれどもまだ気は確かなまま、もがき、泣き叫び、逃げようとしても、どうにもならないむごたらしい死様を、自分もしなければならないのだと、彼女は、思った。
「生き身を、こんなところにとじ込められ、正気なものを気違いあつかいにされてどうして生きていられよう。この苦しい恐ろしさをいつまで堪えなけりゃならないのか、あ! こわい! ほんとうにこわい! 咲ちゃんや※[#感嘆符二つ、1−8−75] お前!」
 彼女は子供のように、大きな声をあげて泣きながら、名状しがたい恐怖に、怯えた。この暗い部屋! この情けない苦悩! これから先、どのくらいつづくか分らない、ながあいながあい一生※[#感嘆符二つ、1−8−75] 恐るべき時間が無限に、彼女の前に拡がっているのを感じた。そして考えた。
「どんなに長いか判らない一生……。一生の間……?」
 不意に或る一つの非常にはっきりした考えが、彼女を馳け出させそうな勢で浮み上った。
「死ぬ※[#感嘆符二つ、1−8−75] 私は……」
 大声で叫んで、体ごと跳ね上ったようにお咲は感じた。けれども実際には、かえって、傷ついた獣のように、冷たく臭い畳の上に、彼女は息もつかず突伏していたのであった。
 何かの形と字を、木版摺りにした、気鎮めの禁厭の紙が、彼女の乱れた髪を見下すように、鴨居《かもい》にヒラヒラしていた。
 おらくは、平常の通り、お咲の食事の給仕をしていた。玉子をかけた一膳の御飯を、いつまでもかかって、舐《な》めるように食べている娘の前に、彼女は、ぼんやりと、坐っていた。引きつめた鬢《びん》が、めっきり薄くなったのや、淡い日差しが、淋しく漂っている頸元などを目に写るがままに見ていたおらくは、フト、お咲の懐から、何か繩のようなものが、三寸ほど下っているのを見つけた。
「オヤ! 何だろう?」
 それとなく、気をつけて見ていたおらくは、暫くすると、ほとんど気付かれないほど、顔色をかえた。彼女は、
「まあ髪が大層こわれたなあ……」
と云いながら立ち上った。そしてきわめて自然にお咲の後へ廻って、片手が髪に触るや否や、電光のような速さで、もう一方の手が、下っていた紐のようなものの端をつかんだ。
「アッ!」お咲は低い驚きの声をあげた。そして、それを渡すまいとして、母の手にすがった。が、おらくは全体の力をこめて、紐を手のうちに手繰《たぐ》り込んだ。
 二人は、全く無言で、奪い合った。暗い一かたまりが、あっちにゆれ、こっちに倒れながら部屋中を動き廻った。暫くして、動くのが止んだ。お咲の啜泣きが起った。とうとう紐は、おらくの手にとられたのであった。
 おらくは、息を切らせ、手を震わせながら、そのかなり長い妙なものを明らかに見た。それは、思わず彼女が、「ああ如来様、南無阿彌陀仏!」と叫んだほど、驚くべきものだった。お咲の下に着ている単衣の襟と、片方の袵《おくみ》が裂かれて、かたいかたい三組の繩によられていたのである。「ああすんでのことであった」彼女は何とも云えない安心に心を撫でられるように感じた。そして泣き伏している、娘の肩をやさしくだきながら、
「こんなことは、決して考えてはなりませんぞ。よくなるときには、だまっていても、如来様がなおして下さる。早まったことは、決しておしでないよ。ああほんに……」
とつぶやいて、頬に貼りついた、髪を掻き上げてやった。お咲の啜泣きに混って、孝之進の寝言が、高く聞えていた。
 お咲の最初の試みは、かようにして失敗した。けれども、この失敗したということが、一層彼女の死に対する狂的な渇仰《かつごう》を燃え立たせたのである。
「死ねば何にも判らなくなる」
 それだけが非常に彼女の、闘いつかれた心を誘惑したのであった。彼女は、一日中「どうしたら死ねるか?」ということを考えていた。
「どうしたら死ねる?」
 天井や戸や窓を見まわした。けれども、人一人を死なすには、それ等はあまり扁平な形すぎる。終に彼女は自分の体までしらべ始めた。
「どうにかして、死ねないものだろうか?」
あっちこっち触っていた手先が、フト髪に触った。
 その冷かに、滑っこい感じが、第一に彼女の注意を引いた。次いでその量、その……長さ! に思い至ったとき。
 彼女は満足らしい微笑を洩した。そして、さっさと手早く、何の躊躇もなく、櫛を抜いた。ピンを取った。背中に散った髪を、一まとめにして、指の先でくるくるとよりをかけた。それからその端を持って、一杯に頸に巻きつけた。彼女は目を半眼にして、そろそろ、そろそろと力を入れて、締め始めた。
 愉快な軽い圧……。ややそれよりも重苦しい圧……少し強い圧……かなり強い……圧。
 お咲は顔が赤く、熱くなってきたのを感じた。
 頭の方へ皆血が上って、顔中の血管が一本あまさず一杯パンパンになったようで、こわばる心持がする。耳がガンガンいう。息がつまって来た。心臓が破れそうに鼓動する、目が堅くなる……。
 お咲は半《なかば》夢中で、ゼイゼイしながら、手に力をこめた。
「もう一息!」
と、思った瞬間、
「お母さん※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 咲二の――夢寐《むび》にも忘られない咲二の声が彼女の耳元で叫んだ。
「お母さん※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 ハッとして手がゆるむと同時に、甘い、すがすがしい空気が、鼻や口から一時に流れこんだ。思わず大きな、深い溜息が出た。けれども、熱く火照って霞んだ彼女の眼に写るものは、相も変らぬ暗い四方と、落ちた髪道具、細く消え入りそうな自分の膝ばかりであった。
 彼女はこれから後、幾度も幾度もいろいろな方法で、自殺を企てた。が、いざという際にいつも失敗した。
 彼女のうちにあって、まだ彼女を死なせたくない何物かが、ほんとのもう一息というときに、強い力で彼女の心を引き戻したのである。
 咲二の叫び声となり、良人の顔となり、或るときは、
「もう少し辛抱すれば、きっと幸になる! きっとなるに違いない!」
という、はっきりとした感じとなって、彼女をまた、ふらふらと生の境域に誘い込んだ。
 こうして彼女は病的な死の渇仰と、生に対する衷心の絶ち切れない執着とに苛まれたのである。
 堪えられない焦躁と煩悶が心一杯に漲り渡った。極度の精神過労で、全く統一力を失ったお咲は、部屋の隅の柱に、ゴツンゴツンと大きな音を立てて頭をぶっつけながら、あてどもなくつぶやき通した。
「どうしたら死ねるだろう? どうしたら……」
 彼女の※[#「うかんむり/婁」、202−18]れきった顔には、痴呆性の表情がそろそろと被いかかり始めたのであった。
 目に見えぬ隅々から、初冬が拡がり出した都会で、浩の生活は相変らず辛かった。寒さが、日一日と加わって来る故郷の僻村で、生と死との間に彷徨《ほうこう》して、苦しみ悩んでいる三つの魂、病み疲れ、なすことを知らぬ老父、姉、甥。すべては不幸である。浩は、僅かに生え遺った樹木も、一本一本と枯死して行く生活の廃墟に独り立つような心持がする。
「ただ独り立てる者※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 浩は無限の感に打たれた。淋しい。辛い。けれども、悲壮な歓喜が彼の心を奮い立たせたのである。
 目もはるかな荒寥《こうりょう》たる曠野の土は、ひろびろと窮りない天空の下に、開拓、建設の鍬が、勇ましく雄々しく振われることを待っているように感じられた。
「鍬をとれ! 勇ましく! 我が若者よ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 偉大な手が、やさしく彼の肩をたたきながら囁いた。



底本:「宮本百合子全集 第一巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年4月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第一巻」河出書房
   1951(昭和26)年6月発行
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年1月1日公開
2009年2月27日修正
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