、月が沈むのと何の差もなく、人が死に、生れ、苦しみするのを自然は見ている。が、決してそうであるのが無慈悲なのではない。求め索《たず》ねて得ようとすれば、自然はそれを肯定していると同時に、あるがまま、なるがままにまかせた心で、安穏にしていたとて、何の咎めも与えないのだ。偉いものだ、素晴らしいものだと彼は、つくづく感じたのであった。
国元の父親から来た手紙を見たとき、浩は、小虫を見たときに感じたと全く同じな、一種の心持、全く説明の許されない一種の感にうたれたのである。悲しいというより恐ろしかった。すべては涙をこぼせる程度の状態ではなかった。まだやっと七つの咲二が、恐れ恐れている禁厭《まじない》を、観念した心持で掛けられる様子。お咲の狂乱した姿、おらくの念仏。父親が、不快なときに立てるあの陰鬱な足音……。
不幸の底に沈んだ二組の親子の有様が、彼の目に活《い》きて動いた。何ともいえず痛ましいことだ。極端な悲しみが、彼の涙を凍てつかせて、肉体的の痛みを、眉と眉の間に感じたほどであった。
「誰がこれを起す原因となったのか?
誰が咎められるのか?」
浩は、うめくようにつぶやいた。
「姉さんは、お母さんに愛された。この上もなく可愛がられた。咲二は家中の者に心配されたのだ……」
「それっきりか?」
彼は、何か訊ねるように狭い廊下の白壁を見廻した。五燭の電気に照らされて、ぼやけた彼方の方から、「それっきりか? それっきりか?」という合唱が迫って来るような気がした。が、それっきりである、まったく。彼は、おらくがただの一度もお咲をきびしく叱ったのを見たことがないと同様に、叱られている咲二を見たことがない。
「ただ愛情があっただけで?」
浩は寒い心持になって、歯を喰いしばった。
「ただ愛情があっただけで!」
彼のたよりない紙片の上にまで、卵を遺させた、「大自然の意志」が、二組のこの親と子を、静かに眺めているのを、浩は感じたのである。
彼の母親は、まだ十六だったお咲を、可愛いばかりに、恭二が若く、また近親であるということをも考えずに嫁入らせた。そのとき、もう既に、咲二がすべての点に不幸な子として現わるべき胚種が、下されていたのである。けれども、誰もそのことは考えずに、咲二が変則な精神作用を持って出て来たことを、偶然のように、また有り得べからざることのように、驚き、かつ悲しんだのであった。
お咲は、咲二を人の物笑いにさせたくなかった。どうぞ立派な人、せめては人並みにだけさせたいばかりに、禁厭にすがった。命より大切な子を、とんだことにした心痛のあまり自分まで物狂おしくなる。「自然は彼女等に、母親の愛情――その子のためには、何ものをも顧りみない熱情――をあまりに強く与えてくれすぎた」浩は堪えられない心持がした。二人の狂人を今日|出《いだ》すまでには、もう幾年も前から、目にこそ見えね準備されていたのである。
彼は全く辛かった。不幸すぎた。
「けれども、俺は立ちどまることは出来ない! あくまでも進まなければならないのだ。勇ましく、しっかりと、お前は男だ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
涙が、いくら押えようとしてもこぼれた。遣るだけは、岩にかじりついても遣り通さずにはいられない彼の心が、励ましであり、苦しみであった。
自分の前途において、出会わなければならないどんな運命も、臆病に回避しようとは思わぬ。けれども……。
自分に期待されている――家を継ぐべき者として、そのことは当然なこととして、他の周囲からは考えられている――と思うと、浩はこわくなってしまった。どこまで責任を持てば好いのか?
十七
自分等のごく僅かな家族の中から、二人まで発狂者を出したことは、浩に或る深い疑惑を起させたのである。幾代か前の祖先で、気の違った人はなかっただろうかということが、非常に考えられ不安でならなかった。父親には、病的な精神欠陥がないというだけでは、恐ろしく微妙な遺伝の証明にはならぬ。たくさん生れた同胞達《はらから》が、皆早死にをしたのも、そんなことが原因になっているのではあるまいかとも考えられる。浩はほんとうに恐ろしかった。
「若し万一そういうことがあれば、どうすれば好い? 俺は不安だ! 考えると堪らない!」
けれども、浩は働かなければならない。その日の来るまで、彼の仕事をしつづけて行かなければならないのである。今ここで臆測してみたところで、解ろうはずのことでない、その万一の遺伝が現われるかもしれぬ日を怖れて、それまでの、どのくらいかの時間を空費することは彼には出来なかった。また、一方からいえば、万一遺伝されているかもしれぬと同様の万一さで、自分が除外例の者となっているかもしれない。きっとそうでないとは、誰が断言出来よう? それほどどちらも万一のことなら、出来るだけ明るい方面を見て進むべきであるのは、考えとしては解っている。けれども、気が狂ってしまった自分の姿を想像すると、静まったはずの心もとかく乱された。苦しくならずにおられなかったのである。
今まで無意識に過ぎていたいろいろの精神作用――例えば人なみより強いと思われる想像力が突拍子もない幻影を見ること、ゴム風船を危かしくてふくらがせないような心持――が、皆病的ではないのかと案じられ始める。今にも微細な頭の機関が、コトリと調子を脱してしまいはすまいかと思われたりして、暫くの間浩は、非常に神経過敏にされていた。夜も、急に不安に襲われて飛び起きたきり、眠られないようなことさえあったけれども、日常の、厭でも応でも頭脳を秩序立てさせる事務が、いつとはなし自然にそれ等のことを恢復させた。
日を経るままに、かなり冷静に考えられて来るようになると、或る程度まで、精神的の訓練を積んでいれば、多少の遺伝的精神欠陥も、補って行けるものであることが解って来た。
「生れた以上は、生きている以上は、その間だけ雄々しく過さねばならぬ。辛かろうが、悲しかろうが俺は堪える!」
浩は、このごろしばしば彼《あ》の「気」を感じた。感激の涙に洗われては、彼の心が引き立てられた。そして、ほんとうに自分の運命を知って、立派に遣るだけのことは遣りとげた男として、自分のことを想うと、すべての苦痛を堪えるに十分な勇気が強く内心に燃え立ったのである。
それから四五日立った或る晩、浩は外出したついでに、庸之助に会うつもりで――交叉点へ行ってみた。いつもいる辺へ行ってみたが姿がない。あちらこちら捜しても見当らないうちに、時間もおそくなりして、そのときは已むを得ず帰って来たものの、彼は妙に心配であった。病気なのじゃああるまいかと思ってみたり、何か電車のまちがいがあったのではないかとまで思った。けれども、訊いてみるところもなく、自分の暇もないので、思いながら二三日費して、或る晩また行ってみた。そのときはもう、見えないどころではなく、株でも譲られたらしい一人の老人が、
「ア夕刊、ア夕刊!」
と小さく叫びながら、淋しげに動きもせず鈴を鳴らしていた。
失望しながら浩はその爺に訊いてみたが、解らない。
「お前さん、今時の若い者が……クフン、クフン、いつまで夕刊売りをしていますかい。大方どこぞの職人にでもなったでしょうよ」
喘息だと見えて、喉をゼイゼイ云わせながら、気のなさそうに答えると、爺さんはまた不機嫌らしく、
「ア夕刊、ア夕刊!」
と力なく叫びながら鈴を鳴らし始めた。賑やかな街の真中に、寒さに震えながら立ち竦《すく》んだようにしている爺さんは、まるで、瀕死の鷺《さぎ》が、目を瞑り汚れた羽毛をけば立てて、一本脚で立っているように見えた。
浩は手持不沙汰にその様子をながめながら、考えた。
「職工になることはあり得べきことである。それもいい。けれども、自分に無断で姿を隠す必要がどこにあるだろう?」
何か嬉しくない事件でも起ったのだろうということが、推察された。がどうしても仕方がない。爺さんに礼を云って歩きながらも、浩は気が気でないような心持がした。若し誰も知らないところで病《わずら》って、そのまま死んででもしまったらと思うと、自ずと涙ぐまれた。雨が降る晩などは、濡れそぼけて行倒れとなっている庸之助を夢にまで見ながら、また先のように思いがけない機会が、思いがけないところで彼に引き合わせてくれることを、心願いにしていたのである。
けれども、庸之助と、浩との間には、そのとき既に偶然の機会も力の及ばない距離が出来ていた。二度目に浩が、索ねて行った時分には、彼は北海道の鯡場《にしんば》行きの人足の一人となって、親分に連れられ、他の仲間と一緒に、もう雪の降った北のはずれへ旅立ってしまった後であったのである。
あの日「天の配剤によって」自分の心の中に希望を見出した庸之助は、今まで自分から進んで同化しようとしていた周囲に、急に反感を持ち、恥辱と憎しみを感じ始めたのであった。(庸之助は、俥夫と喧嘩をしたことから、交番に引かれたことまで、すべて天の配剤であると信じ、あの事件の代名詞として天の配剤を用いた。)善くなろう善くなろうとしている庸之助にとって、厭わしい、醜悪なこととほか感じられないすべてのことが、彼の周囲に渦巻いている。あらゆる下等な誘惑が、互の拒もうともせぬ間に漲りわたっている。
庸之助はこの間に在って、独り自分の所領を守るべく努力したのである。けれどもそれは非常に困難なことである。彼等――庸之助からいえば「下劣な奴等」――の群は、今までおとなしく仲間になっているように見せかけて、急に寝返りを打った庸之助に対して、小面憎い感を免かれない。
「フン、貴様がそう出りゃ、こっちもまた出ようもあらあ」という反感が皆の心を占領して、庸之助が、真面目になればなるほど、総がかりの迫害が募って来た。一度、全身をあげて、彼等の仲間の一員となっていた庸之助の内心には、たといいかほど抑圧していようとも、どんな欲求があり、誘惑があるかということは、彼等にはよく解っている。こうすれば、こう感じるということを、千も万も承知でいながら、チクリチクリと苛なんでは、苦しむ彼をなぶり者にしていたのである。
けれども庸之助は、ブルブルしながらも辛抱をした。そういううちにあっても、揺がない自分を保つことが、真実の修養なのだというのが、彼の確信であった。
ところが或る晩、ショボショボ雨の降るときであった。
妙に骨を刺す風と、身にしみ入る雨水の冷たさで、体中かじかむほどになって、腹を減らしながら庸之助は、帰りたくもない合宿所へ戻って来た。
油障紙を明けると、濁った灯の光に照らされて、脱ぎ散らした草鞋《わらじ》や下駄で一杯になっている土間を越して、多勢が車座になって、酒を飲んでいるのが見えた。
「悪いときに帰って来た!」
庸之助は、つとめて皆の注意を引かないように、隅の方で足を拭くと、そこそこに膳に向った。寒さで好い加減冷えている彼は、冷たい飯を食べると、歯の根が合わないほどになった。頭の下の方が、強直して来るような気さえして、ボッとする酒の香いが、しみじみとこたえた。絶対に禁酒してから、まだ一ト月ともならない彼の味覚は、はっきりその快い酔際の味を覚えている。が、おくびにもそんな気振《けぶ》りは見せなかった。彼等に知られるのが厭で、装うた無頓着さが、彼の態度を忽ち、ぎごちなくした。
カチカチな干物をほごしていると、今まで何も知らないようにしていた仲間の一人が、
「オイ、一杯よかろう?」
と突然|猪口《ちょく》をさしつけた。多勢の酔った声が、呑め呑めとわめいた。
「いやいらない」
「まあそんなに意地を張らなくたっていいやな!」
「飲みてえって、顔に書いてあらあ! ハハハハ!」
「ハハハハハハ、偉いよ!」
面白そうに嘲笑う者達を、庸之助は鋭く睨み返した。
「何で飲むもんかい!」
彼は、鼻について堪らない酒の薫りを強いてまぎらせながら、さっさと飯をしまった。そして隅の方へよって、揉みくちゃになって放ってある新聞を見始めた。けれども、実は見る振りをしたのであ
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