え唄を、伯母さんからおらくが教わったものだ。お咲を始め、死んだたくさんが、この唄でねせつけられたのである、それをまた彼女が咲二を眠らせるに唄う。家庭的な思い出の深いものであった。十ある歌詞《うた》を彼女はたった三つ、それも飛び飛びにほか覚えていなかった。
五つとの――よの――え。
猪うたんと勘平が――勘平が――
ねらいすました二つだま
放そうかいな――のな。
七つとの――よの――え。
生酔《なまよい》のふりをした由良之助――由良之助――
主人の逮夜《たいや》に蛸肴《たこざかな》
はさもうかいな――のな。
十うとの――よの――え。
とうとかたきを討ち納め――討ち納め――
主人の墓所にめいめいと
手向きょうかいな――のな。
お咲は何心なく、手を延してさっきまですぐ傍に寝ころんでいた咲二に触ろうとした。けれども、いつの間にかいなくなっている。彼女一人の影坊師が、煤けた障子に写っている。
「オヤ。またいない! 一体まあどこへ……」
彼女は、フト或ることを思い出した。そして急に陰気な表情を浮べながら、そこから草履を引っかけて、外に出て行った。
裏へ廻って見ると、柿の木と納屋との間に挾まった咲二の、小さい後姿が見える。彼女は抜き足をして近よった。咲二は、人さし指を釘のように曲げて、納屋の外壁をほじくっては爪の間につまって来る、赤茶色の泥を食べているのである。さもうまそうに、ビシャビシャ舌なめずりをしているのを見ると、お咲は、頭から冷水を浴せられたような気がした。周囲を見廻して、まあ見ている者のなかっただけ、何より有難かったと思いながら、もう足音を隠そうともせずに、息子のそばによって行った。
彼は、思いがけず母に来られて、少しはびっくりしたらしかった。が、もうすっかり彼女の愛に信頼しているように、泣きも、逃げかくれもせず、仰向いてお咲の眼の中をながめた。
彼女は、あわててオドオドしながら、息子の手をグングン引っぱって家へ連れ込んだ。障子のあらいざらいをしめきってから。
「どうしてそんなことをするの? 咲ちゃん!」
と、始めて口を切った。
「なぜそんなものを食べるの? お菓子をあげるからお止めと、あれほど云ったじゃあないの? 何がおいしいんだろうねえ」
咲二が壁土をたべる癖の起ったのは、いつごろからだか誰も、はっきり知るものはなかった。が、ともかくお咲が見つけたのだけでも、今度で四度目である。一番最初には、茶の間の隅で、何だかしきりに食べている彼の口のまわりが、泥だらけになっているのから、気のつき出したことであった。
何だか並みでないところのある息子を、どうぞ一人前に成人出来るようにと、全力を尽しているお咲は、どんなに情けないか分らなかった。恥かしくって人にも聞かされない。行燈《あんどん》の油をなめるものがあったという話を思い出すと、たまらなかったのである。
「何という情けないことだろうねえ。咲ちゃん! お前はどうして母さんが、こんなにいけないと云うのに聞き分けないの?(お咲は急に声をひそめて、彼の耳の辺でささやいた。)壁を食べるなんていうのは、お乞食《こも》だってしませんよ。どうぞ止めて頂戴、ね? 母さんこうやってたのむわ」お咲は泣きながら、咲二の前に跪《ひざま》ずいて、両手を合わせた。けれども彼はけろんとしていた。お咲は突っかかって来る悲しみを、押えきれないで、塵《ごみ》くさい咲二の足につかまって泣き伏してしまった。それでも咲二は、涙を浮べさえしない。ただぼんやりと、近くの停車場から聞えて来る汽笛の音に聞き惚れていた。
浩は、ただ一度、小石川からまた聞きに姉の様子を聞いたぎりなので、心もとなく思っていただけで、咲二が壁土を食べる癖などを知ろうはずはなかった。父親の工合もあまりよくないところへ、お咲親子が行ったので、おらくが、どのくらい家計の遣りくりに心をなやましているかが思いやられた。小石川へ行って僅かでも、お咲親子がこちらにいれば当然かかるべき費用の幾分かを、国許へ送ってもらおうかとも思ったが、それも云い出しかねて、彼は血の出るような倹約を始めた。出来るだけ水を浴びて、湯に行かないこと。本や紙をほとんど絶対に買わないこと。ときどきはほんとうに涙をこぼしながら、彼はせいぜい切りつめた生活をした。それでも、一月の末に現われて来るものは、ごくごく僅かであった。息子から来る、三円六拾三銭などという為替を見て、孝之進始めお咲まで口が利けないような、心持にうたれることもあった。孝之進はもう憎いどころではなかった。心のうちでは有難いとも、忝《かたじ》けない可愛いとも思ったが、一旦「勘当した」と明言したことに対して、彼は自分の方から一本の手紙も出すことは出来ない。遣りたくて、むずむずしても意地が承知しなかったのである。そのかわり、浩からの便りは、たとい一片の端書でも、彼は目で読むというより、むしろ心全体で含味するというほどであった。紙の表から裏まで、繰返し繰返しとっくりと見る。考える。批評して「なかなか生意気なことを書きおるわい」と思うと、我ながらまごつくくらい涙がやたらにこぼれる。そして誰が何とも云いもしないのを、「年をとると、とかく目が霞む、目が霞む」と、自分に弁解していたのであった。
浩の方でも、このごろになっては父親がどんな心持でいるかというのを、すっかりさとっていた。孝之進あてにした手紙でも、為替でも、皆滞りなく受取られるのを思うと、嬉しいながら、妙に頼りない心持がした。どうにかして、もう僅かばかりらしい余生を、せめて楽にでも送らせて上げたいと、しみじみ感じた。けれども、自分の最善を尽したより以上のことを、望むことはとうてい出来ない。特別の報酬を得る目的で、夜業などをすることさえあった。
十五
どんなに案じようが歎げこうが、咲二の奇癖はつのって行くばかりである。度重るうちには、自然と他人にも見つかって、噂が噂を産んだ。そして、平常孝之進が、幾分尊大なところから、あまり好意を持っていない者などは、畜生のようだなどとまで云った。お咲にとっては、それが何より辛かった。子供の行末のために、解けない呪咀《じゅそ》が懸けられるような気がした。また時にはほんとに、誰か呪釘でも打っているのではあるまいかと、人知れず鎮守の森やお稲荷さんの樹木などを一々見てまわったりさえした。が、もちろんそんなはずはない。咲二が可哀そうなのと、悪口を黙って堪えていなければならない口惜しさに、お咲はジッとしていられないほどに心をなやました。心配しぬいた揚句、皆はとうとう「かげの禁厭《まじない》」――むしの禁厭――をさせることにした。禁厭使いの婆は七十を越して、腰が二重になっている。白い着物に、はげちょろけの緋の袴、死んだような髪をお下げにしている、この上なく厭な彼女の姿は咲二を異常に恐れさせた。
「お祖母ちゃんの、鐘から出て来たお化けだよーッ! 僕いや、母さん! 僕こわいよーッ!」(咲二は、おらくが一日に度々鳴らす仏壇の鐘の音を、この上なく厭がっていた。そして実際、彼の異様な神経は、その音響から自分の想像している化物の姿を見るようでもあった。)
始めて禁厭をするとき、彼は、手足をじたばたさせ、気違いのようになって抵抗した。で、何にしろ家中の大人がかかって彼を押えつける。そのうちに、いかなときでも自分の嫌いなことをかつてしたことのない母親――お咲――の混っているのを見ると、彼は争う力もないほどがっかりもし、恐ろしくもなった。殺されそうな声で泣き叫びながらもがくのを、情ないやら、腹立たしいやらで、ごっちゃになった孝之進が、
「誰もこわいことはせぬ。静かにしないか! 馬鹿な奴じゃ!」
と叱りつけながら、帯際をとって、彼の膝元に引き据えようとして、一生懸命に力を入れた。
水をたたえた鉢、硯と筆、杉箸、手拭などが用意され、一かたまりになってごたごたしている者達の前で、禁厭使いはわざとらしく落着いて咲二の静まるのを待っていた。
「強いかげがいると、私の顔を見ただけで、なああんた、もうそういう風にあばれるでな。かげがいやがるもんと見えますなあ」
「おじいさんの病気もかげのせいかもしれませんな、おいくつになんなさいます? え? 六十六かいな。そんならかげ六十と云うているからもう六年前にかげは消えたはずですがなあ」
長い間泣き放題にさせられて、幾分か疲れたとき、咲二はむりやりに、禁厭女の前に坐らされた。
皆の注目の焦点になって老婆はいよいよもったいぶった。彼女は一同に辞儀をしてから杉箸を割り、一本をとって水の面に何か書いた。天照皇太神宮を中央に十五体の神の名を書くはずなのだけれども「もう年をとると何でも面倒になるし、字は忘れるし。御免なさりませよ」と心のうちで弁解して何か解らないものを、ごちょごちょと書くように手を動かした。咲二の手をその水で洗わせ、すっかり拭いてから、右の掌に六つ字を重ねて真黒に書きつけた。
「ホラこうするとかげが出ますぞ。指の先からでも足の先からでも、顔からでも、頭からでも、白い細いかげが、さわさわ、さわさわと這い出しますぞ」
何だか思いこんだような調子で云う禁厭使の声が、泣くのをやめて、好奇心と恐怖の半ばした心持でいた咲二の心を撃った。「指や顔からむしが出る!」彼はまたたまらなく気味を悪がった。そして云われる通りに指の先を見ていた。そうすると全く、陽炎《かげろう》のような虫が上げた指の爪の間からフラフラ、フラフラと立ち上った。
「出た! 出ましたよ、まあ!」
大人達も幾分意外だというような顔が、咲二の指の先をながめた。
「術、術でありますよ。術というものは、恐しい利益《りやく》のあるもんでなあ。ほれね、出ますだろう? なかなかふんだんに出ますわなあ」
咲二は息もつけなかった、婆が鬼のように見えた。こわくてこわくて、済むや否や転びそうになって、逃げ出したまま、永いこと家へ入らなかった。戸棚をあけでもしたら、さっきの婆がまた飛び出して来そうな気がしたのである。
その日一日咲二はどうにかなってしまったようにおとなしかった。壁土を食べるのも見つけられなかった。それ故、家の者達はもう利いたのだと思った。うすうす馬鹿にしていたのがもったいなかったとさえ思わせた。どうにかして、自分の寿命を縮めてもいいから、咲二を人並みにしたいと腐心しているお咲は、天にも昇る心地がした。これでなおってくれれば、何という有難いことだかと、あのきたなく、いくらか臭くもあるらしい婆が神様より尊く思えた。ヤレヤレと心から思った。そしてその晩は、傍に寝ている咲二がうなされて泣き出すのも知らずに熟睡した。自分の体の工合まで、はっきりと引き立ったようにまで感じられたのである。
二日三日と禁厭がされるうちに、咲二はこの一日に一度の攻め苦は、とうてい不可抗的のものであると、観念した。禁厭が始まるごとに、彼は一種の軽い幻覚状態に陥り出した。が、誰も知らなかった。十の指の先からは、集めたら、どのくらいになるか分らないほど、たくさんの「かげ」が、さわさわ、さわさわと出た。
四日目の日は、眩ゆいほど好いお天気であった。今日でお仕舞いというので、すべてが念入りに行われた。
いつもの通り、十の指の先から、かげが湧き出した。けれども、どうしたことか! 今日は今までよりも倍も倍もたくさんのかげが、透き通る細い蚯蚓《みみず》のような形をして、ほんとうにさわさわ、さわさわと音まで立てるほど、同じようにまがりくねって後から後からと湧いて来るのを、咲二は見た。恐れで心が寒くなった。ところへ、「ホラ! 御覧なされ。今日は頭の地からも出て来ますわな。ホラ!」という禁厭使いの声を聞くと同時に、咲二は自分の体の中から、千も万もの細い細い糸が、絶え間なくスルスル、スルスルと引き出されているような感じを得た。彼は体の「なかみ」がスーッと空っぽになったと思った。そのとき、咲二の目の前には真白で大きく太った、目も口も鼻もないものが、
前へ
次へ
全16ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング