は平常の通り、――交叉点で夕刊を売っていた。
「アー夕刊は一銭! 報知やまとの夕刊は一銭!」
今止まったばかりの電車の窓々に気を配りながら、彼は叫んで、鈴を出来るだけ勢よく鳴らした。
「夕刊は一銭、アー報知やまとの……」
車掌台に近い一つの窓から、一時に二本の手が銅貨を差し出すのを見つけた庸之助は、大急ぎでかけよって、後ればせに来た一人の仲間を、腕で突飛ばしながら新聞を渡した。妙に魚臭い二つの銭を籠の底へ投げ込むと、彼はちょっと手を突込んで掻きまわしながら、
「チェッ、これっちかい!」
と、いまいましそうに舌打ちをした。もう小一時間立っている割に今夜は溜らない。気が揉めた。一枚でも多く売らなければ、明日の飯に困る彼は、勢い、一生懸命にならずにいられなかった。動き出した電車を追っかける彼の腰の周囲では、六つも一つなぎにした鈴が、ジャラン、ジャランと耳の痛いほど、響きわたった。電車が混むにつれて、買いても多くなって来る。庸之助は平常の通り醜いほど興奮して、後から後からと止まる車台の間を、鼠のように馳けまわって、自分と同じ側にいる十四ほどの夕刊売りには、一枚でも売らせない算段をした。耳と眼を病的に働かせて、どんな小声の呼かけでも、奥の方に出せずにいる手でも見落すまいとしていたのである。自動車が通り荷車が動いている間に、彼は危険などということは、念頭にも置かなかった。ところが、ちょうど彼が人を満載して動けずにいる車台の下で、今新聞を渡したときである。次の車のどこかで夕刊を呼ぶ声が聞えた。
「オイ、夕刊売りはいないのか?」
彼はまっしぐらに馳け出そうとした、途端、一台の俥《くるま》が行く手を遮ぎった。ハット思う間に、俥夫の気転で衝突は免がれた。けれども、客はもう他の売り子に取られてしまった。
「畜生! 気をつけやがれ!」
俥夫が罵倒するにつれて、「間抜けな野郎だなあ」と笑った乗っている男の大きな腹が、庸之助の目の前で、戦を挑むように、膨《ふく》れたり凋《しぼ》んだりした。
気が立っていた庸之助は、このかさねがさねの侮辱にムッとした。
「何だと? 今何んてった! 畜生もう一ぺん繰返して見やがれ!」
と叫ぶや否や、突然梶棒を俥夫ぐるみ、力一杯突き飛ばした。
ヨロヨロとなって、危く踏み堪《こた》えた俥夫は、また二言三言悪口を吐いた。客も「何が出来るものか!」というように、負けずに愚弄するのを見ると、庸之助の病的な憤怒が絶頂に達した。激情で盲目になった彼は、もう口で喧嘩をしている余裕がなくなった。握りかためた両手の拳固が、二人の男の頬桁《ほほげた》に、噛みつくように飛んで行った。生活に疲れていた庸之助の頭は、全く常軌を逸してしまった。真黒になって、手あたり次第擲ったり蹴ったりしたのである。忽ち人が黒山のようになる。或る者が交番へ走る。巡査が来たッ! と云う声が群集の中から起ると、今まで同等な敵として、庸之助を、同じくらい夢中になって撲ったり、突飛ばしたりしていた俥夫は、サット手を引いた。鑑札を調べるとき、「おまわり」は彼等にどのくらい勢力を持っているかということをよく知っていたのである。
で、攻撃の態度を変えて、ひたすら防禦しているように、庸之助の降らす拳固を、腕で支えたり、「まあ、まあ」と云いながら後じさりをしたりした。で、巡査が来たときは、さも「悪い奴」らしく、庸之助が鎮《しず》めにかかる俥夫を狂気のように撲っていたのである。
「コラコラ、一体何事じゃ?」
佩剣《はいけん》を、特にガチャガチャいわせて、近よりざま、振り上げた庸之助の手を掴んだ。俥夫は汗を拭き拭き、出来るだけ上手に弁明し始めた。
「私《わっち》がへい、このお客さんをのっけて……」
片手で指さしながら、振り向くともうそこには、さっきまでいたはずの、客の影も形もない。
「オヤ、いねえや……」
見物人が、崩れるように笑いどよめいた。俥夫が喧嘩しているうちに、客は只乗りをして逃げてしまったのであった。
とうとうすぐ傍の交番へ引かれて、軒先に燈っている赤い小さい電燈を見た瞬間、どこかへ行っていた庸之助の正気が、フーッと戻って来た。
「俺は一体何をしたのだ? 馬鹿な!」
庸之助は、もうジッとしていられないほどの心持になった。彼が口癖のように云い云いした、「良心の呵責」が一どきに込み上って来たのである。
巡査は酒を飲んでいるかと訊ねた。飲んだと答えはしたものの、実際は飲んでいなかった。けれどもどうにかして、こんな下らない、恥かしい自分の位置の弁護となる理由を探したかったのである。傍にいた年寄が、酒の上のことだからとしきりに、庇ってやった。そして「お互に若いときというものは、とかく気が荒いものでなあ」などと、巡査に巧く勧めた。ちょっと見物の手前、訓戒めいたことを喋って、そのまま、巡査は庸之助を許してやったのであった。
町はますます賑やかに、華やかになって来た。敷石道を、水を流したように輝やかせているいろいろの電燈。明滅するイルミネーション。楽隊。警笛。動きに動いている辻に立って庸之助は、呆然としている。ただ開けているだけの彼の目の前を、幾人もの通行人、電車が通り過ぎた。そして、或る一人の若者が、自分の顔をこするようにして通りかかったとき、庸之助は思わずハッとして反動的に面をそむけた。
「浩だッ!」サアッと瀧のような冷汗が、体中から滲《にじ》み出すのを感じた。彼は恐る恐る頭を回して眼の隅から、今行き過ぎようとする若者の後姿を窺《うかが》った。いかにもよく似ている。そっくりその儘である。けれども浩ではなかった。若し彼なら、これほど近くにいる自分を見ないで通り過ぎることは、絶対にないからである。そう思うと、何ともいえない安心が庸之助の心に湧き上った。そして、今まで気付かなかった秋の夜風が、ひやひやと気味悪く濡れた肌にしみわたった。彼はホッとして、額を拭きに手を上げたとき、そのとき、その瞬間! ようよう落付いた彼の頭に、電光のように閃いたものがある。それは浩が、常に云い云いした「強く生きろ!」という言葉であった。
「強く生きろ! 強く生きろ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
庸之助は、今日までこんなにも悪く悪くと進んで来たにも拘らず、未だ自分を悪くなりきらせない何物かがあることを感じた。彼の言葉を思い出した瞬間、いかほど内心の或る物が動揺しただろう。彼はいても立ってもいられなくなった。「こうしてはいられない。どうにかしなければならない。」彼の目前には、体中に日光を輝かせて、勇ましく働いている浩が、両手をあげて自分をさし招いているのがまざまざと見えた。「こうしてはいられない!」彼はもう、目にも届かない、暗い深い谷底へと、ずるずる転落する自分を見離すことは出来ない心持になった。どうにかせずにはすまされない心持――。庸之助はそれが「希望」であることを覚ったのであった。
「希望!」
父親の入獄以来、自分には絶対に関係ないと思っていた「希望。」
「ああ! 俺にはまだ希望があったのだ※[#感嘆符二つ、1−8−75] 希望が!」庸之助はこわばっていた心が、端からトロトロと融《と》けて来るのを感じた。名状しがたい涙がこぼれ出したのである。
十四
庸之助にとっては、どうしても偶然とは思えないこのことのために、一旦影を隠していた彼の「善の理想」がまた頭を擡げ出したのである。
「俺は一生これで終る人間ではない!」とは、もちろんただ思っただけで終ってしまうかもしれないが、庸之助には心強かった。どうしてもすべてが天の配剤だという気がして急に明るい広い、道が開けたのを感じたのである。
天が自分に幸すると思うと、光輝ある考えになって来た彼は、また立志伝中の一人として自分を予想し、努力し始めた。彼は全く熱中して、善い自分を現わすことに心ごと打ちこんで掛ったのである。ちょうど、先に彼が、猫を被って、世間体をごまかしている者達を、アッと云わせてやるほど、どこまでも悪太《わるぶと》くなれと覚悟したときの通りの、強い熱心をもって、今度はまるで反対の方へ進み始めたのである。
この変化は、浩との友情を、またもとの純なものにした。「坊っちゃん、坊っちゃん」と馬鹿にしていた浩――もちろん庸之助は浩の言葉に動かされたことも、一度二度ではなかった。けれども強いて尊び、互に打ちとけ合おうとはしなかった。一人の人間に対してでも特別な情誼を持っていることは、自分が悪太くなりぬくに妨げとなると、感じていたのである。――のことも、無理しない感情で考えることが出来た。死刑囚がいざ殺されるというときになって、頸に繩を巻かれても、彼の心には何か生に対しての希望がある。たとい漠然とはしていても何か今ここで断たれっきりの生命ではないことを感じている。それでなければジッと繩を巻かれていられるものではあるまいなどと、かつて浩が語ったときには、未練だとか、膽《きも》が小さいとか、嘲笑《あざわら》ったけれども、このごろはそうでもあろうという気がして来た。そして、浩はいい友達であったということも感じて来たのである。
思いがけない庸之助から、葉書を貰ったとき、浩は快い驚きにうたれた。どうぞ暇だったら話しに来てくれなどと、見なれた字で書かれてあるのを見ると、彼はそのまま、うっちゃって置けない心持がした。まるですべての態度が一変した彼を見たばかりには、浩は自分が信じられないほどの嬉しさで一杯になった。妙な隔たりのない、先通りの友情が恢復したことは、二人にとってほんとに喜ばしいことであった。
「実は僕も気が気でないようだったよ」
と云ったとき、今の安心でのびのびとした心から、涙が滲み出るのを浩は感じさえしたほどであった。
二人の立ち話しは以前にも増してしばしばになり、また互のためになった。二人の住むまるで異った生活から得たいろいろの話材が、各自を益し合ったのである。
一度心が善を求めて来出すと、庸之助はこの日常の自分の生活が堪らなく呪わしくなって来た。到るところに醜いものがある。卑劣な感情がある。互に悪い深みへ深みへと誘い合って落ちて行こうとするような周囲の状態を見ると、庸之助は浩が羨しくなった。下等な争論や憎しみのない世界へ住みたい。この世間は穢れているという、彼の意見がまた心を占領し、あくまで奮闘して社会の改良者となるべき未来を想像したのであった。
お咲は国へ帰ると、もうすっかり気がのびのびとなった。境遇の変化が非常に彼女の心を慰めて、毎日毎日思い出の中に、体ごととけこんだような日ばかりが続いたのである。
子供時代の思い出――貧しい、父親のこわいなかで、矢のように早く通り過ぎてしまいはしたものの、さすがに今回想すれば、自然と涙の出るような追憶が、眺める一本の樹木、一条の小川からも湧き返って来るのである。
垣根の「うつぎ」の芽を摘んでは、胡桃《くるみ》あえにして食べたこと、川へ雑魚《ざこ》を掬《すく》いに行って、下駄や鍋を流してしまったこと。赤坊だった浩を守りしながら、つい遊びほうけて、どこへか置去りにしてしまったこと。お咲は目の前に、小さい小さい桃割――いつも根がつよくしまりすぎて、結いたてには、頭が下らないような気のしいしいした――に結って、黄色い着物を着せられていた自分が、泣きながらあっちの木の根から、こっちの木の根へと、紐ごと寝かせて置いたはずの浩を捜して歩いている姿が、まざまざと浮み上った。そして思いがけない、桜の木の下に、大きな目をあけて、拳をしゃぶっている浩を見つけたとき! 今でさえも、「ああ嬉しかったなあ!」と思うほど、恐らく一生の中に二度とはあるまい嬉しさであった。
孝之進は近所へ出かけ、おらくは裏の菜園の手入れをしている。家中が、物音一つしない静けさである。手ふさげに、解《ほど》きものをしながらお咲はほんとに安心した心持になっていた。咲二をねかしつけるときよく唄った唄が何となく口を洩れるくらい、彼女は心の「しん」が楽しんでいたのである。昔お江戸が繁盛の時分、流行《はや》った数
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