いことに、彼の不安は単に杞憂に過ぎなかった。帳簿には、一厘一毛、疑問な点さえもなかったのである。
 けれども、頭を集めて調べていた連中の中からは、
「なあんだ! 何でもなかったじゃないかい!」
という不満そうな、つぶやきが起った。上役の者までが、意外そうな――少くもただ安心したというだけではない――表情を浮べて、「偉い時間《ひま》潰しをやったなあ」と云いながら、帳簿を伏せるのを見た浩は、思わず愕然とした。ほんとうにゾッとした。
「彼が正直であったのが、皆は不平なのだ! 若し、一ヵ処でも掛け先を、ごまかしてでもいたら、どんなに噪《は》しゃぐつもりだったのだ!」
 憤り――友愛に強められ、燃え立った憤り――が、彼の胸一杯になった。何か云わずにはおられない感情が、喉元に込み上げた。けれども言葉が見つからなかった。何と云って好いか分らなくなって、彼はフイと、部屋を出てしまった。
 それからやや暫く、仲間の一人が彼を捜しに来るまで、浩は彼の「隠れ家」と呼んでいる石段で、種々な考えに沈んでいた。(K商店の二棟の建物を、接続している廊下の外に、六段ほど苔に包まれた石段がついていた。日光が、建物に遮ら
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