「なぜ分らないんだ? 君には、悪いことをしそうな人間と、善いことをしそうな人間とが分らないのか? かりにも僕の親が、僅かな金、いいか金のためにだよ、祖先の名を恥かしめるような行為をするかというんだ! 貧乏したって武士は武士だ、そうじゃあないかい、馬鹿な!」
 興奮してきた庸之助の眼からは、大きな涙がこぼれた。啜泣《すすりな》きを押えようと努める喰いしばった口元、顰《しか》めた額、こわばった頬などが、動く灯かげをうけて、痛ましくも醜く見えた。彼の胸は、八裂《やつざ》きにされそうに辛かった。
 世の中の「悪」といわれるような誘惑や機会は、たといそれがいかほど巧妙に装い、組み立てられて来ようとも、信頼すべき父親と自分の、士《さむらい》の血の流れている心は、僅かでも惑わせないものだという、平常の信念に対して、このように恥辱な事件に父の名が並べられるというのは! あんまりひどすぎる。彼は大地が、その足の下で揺ぐように感じた。口惜しい、恥かしい、名状しがたい激情が、正直な彼の心を力まかせに掻きむしった。あてどのない憎しみで燃え立って庸之助は、
「うせやがれ! 畜生※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
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