穏やかに保たれていたのである。
その晩は大変蒸暑かった。星一つない空から地面の隅々まで、重苦しく水気を含んだ空気が一杯に澱んで、街路樹の葉が、物懶《ものう》そうに黙している。
かなり長い路を、病院から帰ってきた浩は、もういい加減疲れていた。小道を曲って、K商店の通用門を押した。厚い板戸がバネをきしませながら開くと、賑やかな笑声が、ドーッと一時に耳を撲《う》った。明るい中で立ったりいたりするたくさんの人かげが、硝子越しに見える。外界からの刺戟にも、内面からの動揺にも、絶えず緊張し通して一日を送った彼は、せめて寝る前僅かでも、静寂な、落付きのある居場所を見出したかった。
陽気すぎる中に入れきれずに暫く立っていた浩は、やがて思いなおして、一歩入り口に足を踏み込もうとした瞬間、隅の暗がりから、不意に彼の袴を引いたものがある。
「浩君! ちょっと……」
彼をもとの往来に誘い出したのは、庸之助であった。街燈の下まで来ると、彼は立ち止まった。憚《はば》かるようにキョロキョロと周囲を見まわしてから、一枚の地方新聞を浩の前に突出すと、往き来するものが、浩のそばへよらないように、彼の体の近くを行き
前へ
次へ
全158ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング