い。
「あれだ! 見ろ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
「まあ君、そんなに怒ったって駄目だよ。宿直へでも行ったら好いじゃあないか、あすこならお爺さん一人で静かなもんだよ」
「なに好いよ。今夜は……誰れ? お父さんかい?」
「ああ手間ばっかりかかってね」
「姉さんのことでも云ってやるのかい。同胞《きょうだい》があると、お互に三人分も四人分も心配しなけりゃあならないねえ。結句僕のように独りっきりだと、そんな心配は要らないで、さっぱりとしている。まあ書き給え、僕は湯にでも行って来ようや!」
 浩は、片手で耳をおおうようにしながら、小学の子供の書く通りに、一字一字に粒のそろった、面の正しい字を書き出した。のろのろと筆を動かしてゆくうちに、彼の心持は次第に陰鬱になってきた。不幸な運命の、第一の遭遇者である彼の父、孝之進の、黒い眼鏡をかけた※[#「うかんむり/婁」、101−1]《やつ》れた姿。優しい老母。気の毒な姉。
 家柄からいえば、孝之進は名門の出である。けれども、若いときから、生活の苦味ばかりを味わってきた。ちょうど彼が出世の第一歩を踏み出そうとしたときに起った、政治上、社会上の大津浪が、
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