、負けずに愚弄するのを見ると、庸之助の病的な憤怒が絶頂に達した。激情で盲目になった彼は、もう口で喧嘩をしている余裕がなくなった。握りかためた両手の拳固が、二人の男の頬桁《ほほげた》に、噛みつくように飛んで行った。生活に疲れていた庸之助の頭は、全く常軌を逸してしまった。真黒になって、手あたり次第擲ったり蹴ったりしたのである。忽ち人が黒山のようになる。或る者が交番へ走る。巡査が来たッ! と云う声が群集の中から起ると、今まで同等な敵として、庸之助を、同じくらい夢中になって撲ったり、突飛ばしたりしていた俥夫は、サット手を引いた。鑑札を調べるとき、「おまわり」は彼等にどのくらい勢力を持っているかということをよく知っていたのである。
 で、攻撃の態度を変えて、ひたすら防禦しているように、庸之助の降らす拳固を、腕で支えたり、「まあ、まあ」と云いながら後じさりをしたりした。で、巡査が来たときは、さも「悪い奴」らしく、庸之助が鎮《しず》めにかかる俥夫を狂気のように撲っていたのである。
「コラコラ、一体何事じゃ?」
 佩剣《はいけん》を、特にガチャガチャいわせて、近よりざま、振り上げた庸之助の手を掴んだ。
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