眼を病的に働かせて、どんな小声の呼かけでも、奥の方に出せずにいる手でも見落すまいとしていたのである。自動車が通り荷車が動いている間に、彼は危険などということは、念頭にも置かなかった。ところが、ちょうど彼が人を満載して動けずにいる車台の下で、今新聞を渡したときである。次の車のどこかで夕刊を呼ぶ声が聞えた。
「オイ、夕刊売りはいないのか?」
彼はまっしぐらに馳け出そうとした、途端、一台の俥《くるま》が行く手を遮ぎった。ハット思う間に、俥夫の気転で衝突は免がれた。けれども、客はもう他の売り子に取られてしまった。
「畜生! 気をつけやがれ!」
俥夫が罵倒するにつれて、「間抜けな野郎だなあ」と笑った乗っている男の大きな腹が、庸之助の目の前で、戦を挑むように、膨《ふく》れたり凋《しぼ》んだりした。
気が立っていた庸之助は、このかさねがさねの侮辱にムッとした。
「何だと? 今何んてった! 畜生もう一ぺん繰返して見やがれ!」
と叫ぶや否や、突然梶棒を俥夫ぐるみ、力一杯突き飛ばした。
ヨロヨロとなって、危く踏み堪《こた》えた俥夫は、また二言三言悪口を吐いた。客も「何が出来るものか!」というように
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