である。よく新聞などにある詐欺に、かける人間も、またかかる人間も、望むところはただ一つなのだと思うと、浩はお互に可愛いところがあるというような気持になったりした。
 このごろではもうお咲も、浩に厭な顔ばかりを見せている元気もなくなった。一人でも親身に自分のことを心配してくれる人が有難く思われた。年寄達や夫だっていざとなればどうだか分らないというような心持もしたし、だんだん訳を聞いて見れば、あの夜のことも、浩ばかり悪いわけでもない。仕舞いには、
「お父《とっ》さんの考えるような出世は、今の世の中で出来ようはずはないわ。大学を出た立派な人だって始めは、ずいぶん廉《やす》くて働くんだっていうもの。浩さんなんかたった十九で十五円じゃ年からいったってねえ。それに学問のしようから違うんですもの……」
などと暗に彼に力をつけたりした。彼は自分と父親の間を周囲のものがいろいろなふうに考えているということに驚かされた。年寄は年寄達で、彼等が若かった時代に見聞きした通りの事件に近いものとして推察しているし、お咲はお咲で、父親が彼の出世の、のろいのを怒っていると思っている。彼は、傍からいろいろ云われて、仕舞いには、ほんとうに自分が考え、望んでいることは何なのか分らないようになってしまう。若い者達が無理でなく思われた。今の場合とは違うかもしれないが、一生の職業を定めるときなどに、あれが好い、これが好いとあまり智慧をつけられ過ぎた結果、とまどって方々喰いかじりのまま一生を過してしまう人などさえある。「各自は、各自の進むべき道はただ一本ほか持たない。それを一旦見出したら決して迷わずに進め、どしどし進め。岩があったら踏み越え、川があったら歩渉《かちわた》れ。倒れるなら、行けるところまで行ってから倒れろ!」彼は、一人の若者が、勇ましく両手を拡げ、足音を踏みとどろかせ、胸を張って、嶮しい山路、荒涼たる原野を、まっすぐに、まっすぐに、どこまでも、どこまでも突き進んで行く姿を想像して涙をこぼした。勇ましく力を張りきらせて暮して行こうと思いながら、理智でいえば卑小な感情にたとい一時的ではあってもほとんど心全体うちのめされたようになることのある自分を思うと、(彼は昔の学者やその他の偉かった人のように感情を殺すことはのぞまない。人間の感ずべきあらゆる情緒、情操を尊重している。真の人間となろうには、それ等のあらゆるものに共鳴し、あらゆるもののなかから、何ものかを発見して行くべきだとは思っている。が、ときどきほんとに小っぽけなこと、たとえば自分の仲間達が、自分に無理解な冷評を加えるときなど、超然としているつもりでも、内心はガタガタすることがあると、それは堪えようとする虚栄心で、一層心が苦しむ。憎んじゃあいけないと思っても憎む。憤っちゃあいけないと思っても怒る。或る程度までは、人間の本性として許すべきいろいろな感情も、度を越すと、浩には自分自身にとっては卑小に感じられるのであった。)雨が降っても、暴風が荒れまわっても、雲のかげには常に燦然《さんぜん》と輝いている太陽が、尊く思われた。自分等がこうやってあくせくして、喧嘩をしてみたり個人個人お互には何の怨みもないものを、大きな鉄砲玉で殺し合ってみたりしている上には、太陽が昨日も今日も同じに輝きわたっている。彼は何事をも肯定している。憎まない。すべての人間に同様の微笑を向けている。浩は、「すべて好い……」という言葉を具体化したらこういうものになると思った。
「太陽のような心を、ちょんびりでも持っていたらなあ!」としみじみ思う。と彼は祈りたい心持になる。そういうとき彼は何か自分を愛撫し、激励し、叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]して下さる「気」があることを感じた。太陽そのものでもなく、今までのたくさん人格化された神という名称で呼ばれるものでもない。ただ「気」である。音もなく、薫香《かおり》もなく、まして形はなく、ただ感じ得る者のみが感じる「気」なのである。彼はその「気」の霊感の前には飽くまでも謙譲であり得た。涙をこぼしながら、どうぞ自分が、ほんとうの一人の人間として善くなりますようにと祈った。そしてどんな苦しいときでも、男らしく辛抱して、遣れる最上を致しますと心のうちにささやくと、疲れた心も奮い立った。進軍の角笛が、高く、高く鳴り響く。心も体も、しゃんとして働ける。
 浩は元来、仏教も基督教も信じてはいない。無宗教者であるともいえる。けれども、彼の衷心の宗教心は非常に強い。強いだけ、それを全然満足させ得るものを彼の考えでは見出せなかった。けれどもいつとはなしに、彼の感激を得るようになってから、強いて自分を何々信者として期待しなくなった。十分自分を慰め、励まし、同時に心から悔い改めさせるものが、あればそれでよいと思った。人々
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