が一定の宗教に入るのも、この感激を得るためではないのだろうか? 彼は、彼にとって絶対な感激の本源を認めて安心出来たのである。
十三
浩はこのごろになって、しきりに庸之助と自分との関係を考えるような心持になっていた。それはもちろん、あの晩ああいうことがあったのが原因になってはいるが、父親を見たり、姉を見たりして、各自の生活の型ということを感じて来たのにもよるのである。
浩は普通にいわれる親友というのは、大嫌いである。互に知っていたところで、何にもならないことまで打ち明け合う。遠慮なく打ちあけ合うということは大切な、ほんとに行けば嬉しいことではあるがそれが、義務のようになってくると、浩には堪らない。そして、相談し、進み合って行くのならまだ好いけれども、あの男のことに就いて、自分は他の誰よりも委しい事情を知っているということが、たとい漠然としていても感じられて来ると、悪い。親友というものは、かくあるべきものと、定義を下されて、教育されて来たのだから、とかくその定義として挙げられてある条件を欠くまいとする。互に親友がっているのは大嫌いであった。それ故、庸之助に対して、一度も彼は親友だと云ったりしたことも、思ったことさえもなかった。が、「このごろの自分の心持を考えてみると、少し安心できない節々があった。庸之助の生活――彼自身の境遇から来る、必然的な生活条件を持って、彼にほか解せない、絶対的な彼の生活――というものを、考えていながら、考えないと同じようなことを、感じてはいなかったかということなのである。何んだか今まで自分が、彼を他動的に、彼の生活の型から脱しさせようと焦っていたのではなかったかなどとも思った。はっきり、彼の苦労の形式と、自分の苦労の形式とは違ったものでよい。ただ互に苦しい思いをしているのだということを認めて、堪える心を励まし合って行けば好いということを、感じていればよいのだが。それが疑わしい。きっと自分は、庸之助のいろいろなことが、自分の理想からみると、あまりかけ離れたもののように思っていたのだ」浩は、彼自身が折々感じている、迷惑な同情を、庸之助にもかけていたような心持がした。庸之助の前へ出ると、自分の人格全部が試みられているような不安を感じていたことも考えられた。そして、或るときは、庸之助は、自分の試みのために現われて来た者ではないのか
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