ゆるものに共鳴し、あらゆるもののなかから、何ものかを発見して行くべきだとは思っている。が、ときどきほんとに小っぽけなこと、たとえば自分の仲間達が、自分に無理解な冷評を加えるときなど、超然としているつもりでも、内心はガタガタすることがあると、それは堪えようとする虚栄心で、一層心が苦しむ。憎んじゃあいけないと思っても憎む。憤っちゃあいけないと思っても怒る。或る程度までは、人間の本性として許すべきいろいろな感情も、度を越すと、浩には自分自身にとっては卑小に感じられるのであった。)雨が降っても、暴風が荒れまわっても、雲のかげには常に燦然《さんぜん》と輝いている太陽が、尊く思われた。自分等がこうやってあくせくして、喧嘩をしてみたり個人個人お互には何の怨みもないものを、大きな鉄砲玉で殺し合ってみたりしている上には、太陽が昨日も今日も同じに輝きわたっている。彼は何事をも肯定している。憎まない。すべての人間に同様の微笑を向けている。浩は、「すべて好い……」という言葉を具体化したらこういうものになると思った。
「太陽のような心を、ちょんびりでも持っていたらなあ!」としみじみ思う。と彼は祈りたい心持になる。そういうとき彼は何か自分を愛撫し、激励し、叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]して下さる「気」があることを感じた。太陽そのものでもなく、今までのたくさん人格化された神という名称で呼ばれるものでもない。ただ「気」である。音もなく、薫香《かおり》もなく、まして形はなく、ただ感じ得る者のみが感じる「気」なのである。彼はその「気」の霊感の前には飽くまでも謙譲であり得た。涙をこぼしながら、どうぞ自分が、ほんとうの一人の人間として善くなりますようにと祈った。そしてどんな苦しいときでも、男らしく辛抱して、遣れる最上を致しますと心のうちにささやくと、疲れた心も奮い立った。進軍の角笛が、高く、高く鳴り響く。心も体も、しゃんとして働ける。
浩は元来、仏教も基督教も信じてはいない。無宗教者であるともいえる。けれども、彼の衷心の宗教心は非常に強い。強いだけ、それを全然満足させ得るものを彼の考えでは見出せなかった。けれどもいつとはなしに、彼の感激を得るようになってから、強いて自分を何々信者として期待しなくなった。十分自分を慰め、励まし、同時に心から悔い改めさせるものが、あればそれでよいと思った。人々
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