が、起き立ての子供のように、意識の統一のつかない彼は、ぼんやりとしていると、一人の若い者が裾の方に来てお辞儀をした。半分目を瞑って、後頭部の鈍痛を味うように感じていた彼は、
「誰れだ?」
とはっきり云ったつもりで声をかけた。けれども、浩の耳には、そち、こちに散らばっている一言一言を拾い集めて云ったように、
「だ、れ、だ?」とほか聞えなかった。情けない心持が、サアッと体中に流れた。
「お父さん? 工合はどんなです? 頭が痛みますか?」
「お父さん? ああ浩、お前だったかい!」
どんよりしていた孝之進の顔が一時、明るくなって、またもとの陰気さに戻った。大笑いになりそうな嬉しさを感じて擡げた頭を、またもとの通り枕に落しながら、孝之進は、
「帰れ帰れ!」
と云いすてて、寝がえりを打った。お咲の詰問するような眼差しが鋭く浩を射た。彼は、妙に縺れ合って、どれが、どの色とも分らない感情が込み上げて来るのを感じた。恥かしいのでも、恐ろしいのでもない。まして憎らしいのではないけれども、心の平調が乱れた。落着きが、一時自分から去ってしまったような気がした。涙ぐみながら、だまって坐っていた彼は、やがて「お大切になさい」と云って立ち上った。
下へ降りて来て見ると、長火鉢の前で、何か土鍋で煮ていた年寄は、黙って立っている浩を、見上げながら、「時を見て、またゆるりとお話しなさるがいいよ。若いときは、誰でもねえ……」と、慰めるとも追懐するともつかない表情を浮べた。
その後、浩は一日に一度ぐらいずつきっと父親の見舞いに来た。が、二階には行かないで、持って来た果物だの菓子だのを年寄や、また時としてはお咲に頼んで帰った。孝之進は、浩が来たらしい声が下から聞えて来ると、耳を澄ませて、何事も洩らさず聞きとるに努力していた。「もうそろそろ来そうなものだ」と思っていると、格子の鈴が鳴る。帰るらしい挨拶の聞えるときや、一日心待ちに待って来られないときなどには、訳の分らない淋しさが湧いてきいきいした。けれども、彼はただの一度も浩のことを口に出しては訊かなかったし、来ているのが解っても、上れと云わなかった。「そこが武士の意地」なのであるらしかった。そのくせ、浩が持って来た果物などを食べるとき、お咲が一緒に泣き出してしまうような涙をこぼした。
浩は、父親に「帰れ」と云われた息子として、自分に妙な同情や臆測が加
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