を鳴らしたてた。あまり急だったので、孝之進は少しくあわてた。そして避けようと一歩傍へ踏み出した途端、彼の歯の下駄はフト、おそろしく堅く、でこぼこな何かの塊りにふみかけた。平均を失った体と一緒に、足の下の塊りもゆすれる。ますます調子の取れなくなった孝之進の体は、二三度前後に、大きく揺れると、ハッと思う間もなく仰向きのまま、たたきつけられたように倒れてしまったのである。その瞬間孝之進は、後頭部と腰が痲※[#「やまいだれ+(鼾−干−自)」、第4水準2−81−55]するような心持がした。グラグラとして真黒になった心の前で、ちょうど覗き眼鏡の種紙が、カタリといってかえる通りに、今まで自分の前一杯にあった、幅の広い何物かが、微かにカタリ……と音を立てて、届かない向うにかえったように感じた。

        十一

 退院してからお咲の工合もあまりよくない上に、孝之進まで、あの夜転んだのが元で、どことなく体を悪くしてしまったことは、彼等にとってかえすがえすもの痛手であった。ほとんど敷き通しにしてあるお咲の床の傍に、もう一つ床を並べて、何ということはなしただ眠ってばかりいる孝之進の様子に家中は、ひそかに眉をひそめた。ようようお咲を、それも血の出るような思いをして、やっと出したばかりだのにすぐまたお代りに出られては、とうていやり切れなかったのである。
 翌日、そのことを電話で知らされたときには、浩も半分病人のようであった。昨夜の睡眠不足、精神過労に加えて、二三日前からの風邪で、体中に熱っぽいけだるさが、蔓《はびこ》っていた。電車に乗っている間中彼は鈍痛を感じる頭のしんで、考えに沈みつづけていた。
 浩が行ったとき、孝之進は二階で眠っていた。仰向けに、ユサリともせず寝ている彼の、口の周囲や目のあたりに、気のせいかもしれないが、昨夜まではなかった皺がふえているように見えて、浩の心はかるく臆した。足音を忍ばせて、傍にマジマジと横わっているお咲の枕元に坐って頭を下げると、彼女はいきなり、
「なぜお父さんを怒らせなんかしたの? あなたは!……。御覧なさいよ!」
と咎めるように囁いた。沈黙している彼を捕えて、半ば絶望的な感情から起る、執拗な意地悪さで、お咲は長いこと、彼を責めたり、憤ったりした。
 かなりよく眠っていた孝之進は、聞えないようで妙に耳につく彼女の話声に、うすうすと眠りからさめた。
前へ 次へ
全79ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング