思うと、また、自分が或るときは非常に善い人間であるが、或るときはもうもう実に卑小な人間にもなるということを思うと、とかく踏みとどまりきれずに、どうにもならない際まで行ってしまう世間多数の人間を、「あいつは馬鹿だ!」とか、「思慮が浅いから、そうなるに定まっているのさ!」などと、一口には云いきれなかった。お互の長所を認めて、尊重し合って行くことは立派だ。けれどもまた、互に許し合い助け合って行きたい弱点も各自が持っているのだと思うと、浩は涙がこぼれた。
 庸之助が仲間の目を盗んで、あの記事の出ている新聞を隠そうとして、畳んで懐に入れてみたり、机の中に押し込んだり、それでも気が済まぬらしく、鞄まで持ち出して、部屋の隅でゴトゴトやっているのをみると、浩はオイオイ泣きたいような心持になった。
「君はきっと、出来るんなら、日本中の新聞を焼き尽してでもしまいたいんだろう? なあ庸さん!」
 庸之助の父のような位置にあり、境遇にある人が、今度のような事件に、全く無関係であり得ようと、浩には思えなかった。

        四

 薄紙を剥ぐように、というのは、お咲の恢復に、よく適した形容であった。全く気の付かないほど少しずつ彼女はなおってきた。血色もだんだんによくなり、腕に力もついてくると、彼女の全身には、恢復期の何ともいえず活気のある生の力が充満し始めた。そして、哀れなほど、若い母親として送った二十《はたち》前の凋《しぼ》んでしまった感情が、またその胸に蘇《よみがえ》ったのである。
 寝台の上に坐っているお咲の目には、開け放した窓を通じて、はてもない青空が見渡せた。かすかな風につれて窮まりもなく変って行く雲の形、あかるい日の光を全身にあびて、あんなにも嬉しそうに笑いさざめいている木々の葉、その下にずらりと頭をそろえている瓦屋根。
「ア! 烏が飛んできた! 猫が居眠りをしている……。まああそこに生えているのは、何という草なんだろう? おかしいこと、あんな高い屋根の上に――、ずいぶん呑気そうだわねえ……」
 子供のように、微笑みながら、先の屋根に、キラキラしながら、そよいでいるペンペン草を眺めていると、夏の眠い微風が、静かに彼女の顔を撫でて通った。彼女の耳は、風に運ばれてきたいろいろな音響――かすかな楽隊、電車のベル、荷車のカタカタいう音、足音、笑声――をはっきり聞きとった。と、同時に
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